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世界にとり残される季節の特別なさびしさについて

カメラロールの写真が1枚も増えていないのを毎朝一瞬だけ確認する日々。
お盆の直前に体調を崩して、予定キャンセルのち休養のち仕事と雑務、と1人であくせくしていたらあっという間に平穏な日常から遠ざかっていた。
回復して久しぶりに外へ出てみるといい天気なのに世界が驚くほど静かで、ああこれは年末と同じ空虚だ、自分以外の全員に予定がある日、みたいなさびしさ!!
と悲観にくれようとしたが暑くてやめた。


真夏に孤独はしっくりこない。

外は灼熱で忙しなく、騒々しく、人々は集って笑って力いっぱい楽しそうだ。みんな暑い暑いと言いながら気持ちよく動き回って、最後には燃えるような夕暮れに心を溶かすんだろう。いいな。この季節は人間たちがみんな素敵なムードに包まれて楽しそうに見える。いいないいな。私は毎日換気扇の音を聞きながら部屋の中を転々としているだけだ。


いいな、と感じていた日々はまだよかったのかもしれない。
楽しそうな世界をよそに10日ほど暮らしたら、私は人との接点がない生活に十分慣れてしまった。写真が増えないカメラロールもそろそろ気にならなくなるだろうし、珍しく健やかに孤独だ(皮肉にも体調不良だけど)。

異動の季節なのも相まって、自分がこの土地を去り本当に孤独になることを想像する。この日々がずっと続く感じかー、と変に安心した。「私や私と会っていた人は、こうしてお互いがいない状態にすんなり馴染んでいくのだろうな」と思った。でもこんな安心など放り投げて、苦しくてももっと愛情深くありたい気がする。痛覚が鈍っている。さびしいときに思い浮かべたい尊さや恋しさを少しずつ思い出せなくなっているのだ。

この心模様、さびしさを感じられなくなるさびしさ、みたいな感じである。
「何かを失ってはじめて感じる尊さ」とはよく言うが、でも「さびしい」という気持ちは喪失ではなく存在感とともにあるのではないか。何かや誰かを近くに感じられるからこそ「もっとずっと自分の人生の中にいてほしい」という思いを抱けるのであり、その対象が失われた瞬間をピークに少しずつ感じられなくなるのでは?


最近の私は孤独なのだからとてもさびしいはずだけど、みんながどこかへ行ってしまった世界に馴染んでしまったのでさびしさを噛み締めようとしてもうまくいかない。人生から出ていったものを捉えつづけることは難しい。