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人生は短いし、できれば独りでいないほうがいい

こんな感じの台詞があった。最近観た映画のワンシーンだ。死とか性とか汚物とか狂気とか、私たちが苦手な(なぜなら理解できないうえに抗えないから)ダークサイドの"逃れられなさ"について力の限り愛おしく編まれた物語で、あたたかいような冷たいような不思議な気持ちになった。


人間が苦手な、逃れられないし理解できないもの(つまり本能?運命?性?業?)を仮に暗闇と呼ぶことにしよう。
近ごろ様々な暗闇についてたびたび考えるのだが、いつまで経ってもまとまらない。行き着く先はいつも同じ、自分が抗えない流れや枠型の中にいるのは明白だけど、私にできるのはそれに「気づく」ことだけだ、という無の地帯である。
そこにたどり着いたところで、身体も思考も人生もどうにもならない、と途方に暮れるだけだ。あるいは無限に絶望し続ける道があり、どちらにせよ救いはない。
結局私は、様々な人が暗闇に対峙して放った言葉を読んでは頭の中に散らかし、その中に座り込んでめそめそすることしかできなかった。

そもそも、そんなこと考えないほうが断然いいのではないか。
少しでも重心が傾けばそのまま暗闇へ転落してしまう危うさ、が人の心や生にあることを私たちは知っている。しかしできるだけ暗闇の気配と目を合わせないようにしているのだ。理解の及ばないものに裸の目を向ける行為は危険だ、と感じるからだろうか。
そうなのだと思う。暗い場所を無理に探ろうとしてはならない。思考停止して呑気に楽に、美しい物語へ身を委ねて苦しくないように。それがなにより私たちの本性であり生きる術であるはずだ。


それでも、私は喪失や転落やあらゆる暗闇に正面きって対峙したい気がする。だって実際に人生や死は目の前で起こることなのに、わざわざ物語にして納得するなんてできるわけがない。

そうあるためにどうにか考えねばという焦燥、その先には何もないという諦観、いつまでも視界が晴れないことへの恐怖、の堂々巡りを私は続けている。どのように目を凝らしても何も見当たらず、1人で暗闇を見渡すのは実に辛くて心細いことを知った。それでも忍耐なのか鍛錬なのか、根気強くぐるぐるした先にいつか新しい景色を見たい。

その覚悟めいたものを自分に言い聞かせながら、私は”できれば独りでいないほうがいい”という声をいつまでも握りしめている。