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すべて不可逆の夏

8月最終日、仕事を終えてレイトショーを観に行った。体調崩すわ辞令出るわ旅行するわで混乱を極めていた1か月をそっと閉じる感覚でスクリーンをぼんやり眺める。
あまり何も考えたくなかった。その数日前の夜、私はひとり心をぐちゃぐちゃにしてベッドの中で泣いたり暴れたりしたのだった。難しいことにその苦しい時間は、楽しいとか愛おしいとか、かけがえのない感覚の揺り戻しとしてやってくる。自分ではどうしたら克服できるかわからなくて、これがいつか解ける呪いだといいなと思う。今年はそうして呼吸を直しているうちに夏が終わるらしかった。


映画はよかった。

物語の後半、父である登場人物が娘に言った
「忘れないで」
という台詞を聞いて、すごい感情だな、と思った。「すごい」というのはつまり、自分には実感したことや言葉にしたことがなく、計り知れない強さや悲しさを含んでいる、そういう迫力というか凄みである。「忘れないで」なんて、まるで「あなたは忘れてしまう」と言っているみたいではないか。

私はこんな風に気持ちを言い表したことはないけど、映画を観てからなんとなく自分の感性にも「忘れないでほしい」が備わっている気がしてきた。今まで経験した強烈な感情につけられる名前をひとつ増やせたようにも感じた。「涙が止まらなかったあの時、私は"忘れないで"と叫びたかったんじゃないか?」とかね。
でもそれは戯言だ。すごい感情を"知りつつある"だけでは、きっと計り知れないままなのだ。それに、感情に名前をつけなおすことで自分が救われたりするのかはよくわからない。余計に辛くなる気もする。そもそも深刻になりすぎなのかもしれない。

でもとにかく、なんかすごい感情を知ってしまった、とだけ頭の中でつぶやいて家に帰った。

知ってしまった、といった戻れない変化の感覚が個人的に大切だ。「不可逆」という概念を本で読んで以来、この強い言葉も好きになった。知ってしまったこと、出会ってしまった人、たくさんの接点によって私は刻々と変形している。それを実感することで「自分が不可逆である」と思い知る瞬間は人生の滋味だ、と思う。どのような変形であったにせよ、戻れないと感じることで自分を肯定的に諦められてどこか嬉しいのかもしれない。

ただ最近は、身に起こることの何もかもを計り知れず会得できないまま「もはや"不可逆だ"ということしかわからんな」と途方に暮れている。
この夏に限らず毎日がわからないことやままならないことの繰り返しで、どうにか前向きに咀嚼したいと念じてはいるが、たとえばすごい感情を知るとか忘れられない経験をするなどしたところで結果的にその強烈が自分を救ったのか苦しめているのかは全然わからないのだった。知ってしまい、出会ってしまったという実感だけがそこにある。
だから次の秋は、まあ何かしらの肉付けはされたかな、みたいな清々しい態度でいきたいな。