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小説

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自作の小説です。 最近はほぼ毎日、500〜2000字くらいの掌編を書いています。
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#喪失

遠くへの手紙

遠くへの手紙

 結局のところ俺はただ狂いたかったのだ。

 狂気とは現実との解離であるから、正気を手放せばあの頃に戻れると。

 夢を俺だけの現実にできると。

 彼女がもういないという事実を拒絶し否定して幸福の繭にこもり、腐り果てるまで闇の中にありもしない光を見続けていられると。

 信じることで人の形を保っていた。

 水の入ったポリ袋みたいなぐにゃぐにゃの塊になった俺には、地球の重力から解き放たれるか、針

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世界茸(後編)

世界茸(後編)

 岩盤はさらに抉られ、生白い茸の脚が人工の光に晒されていた。ぬらぬらとしたその根の内部を今も蒸気となった魂が流れ、母となる者の内に生命を宿している。

「王は狂っていると思われますか?」

 俺の問いかけに博士は巨大な茸から視線を下げて俺を見つめた。

「この決断は理に適っていると思うよ。この先も戦いが長く続くなら、かつ敵国を徹底的に滅ぼしたいのならね。まぁ、狂人扱いされてるあたしが言っても仕方な

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世界茸(中編)

世界茸(中編)

 巨人が大地を叩き割ろうとした跡のような裂け目が木の根に半ば隠されて口を開けていた。それが冥界の中枢への入り口だった。

 まずは博士と俺が中の確認に入ることになり、ゴーグルと命綱を装着した。

「こんな軽装で大丈夫なんでしょうか?」

「あたしは何度か入ってるけど平気だったよ。冥界は生者には干渉しないから」

 博士は事もなげに言って、岩の隙間をひょいひょいと下りていった。

 博士に続いて湿気

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彼の新しい犬

彼の新しい犬

 ケーキボックスみたいな紙の箱の中からキャンキャンと甲高い声が聞こえる。

 片頬を上げて「買ってきちゃった」と言う彼。全身の筋肉が弛緩して重たい泥のように溶けていく。開きかけた口は貝のように閉ざす。抵抗してももう無駄だ。

 箱から取り出したふわふわの子犬を彼は僕の膝に乗せる。君によく似た濃い琥珀色の目と、君に似ていない垂れた耳。覚えのある体温。

 君の定位置だったあの窓辺で、君が寝ていた空色

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いつかの思い出(喪失と幸福について)

いつかの思い出(喪失と幸福について)

 密で柔らかな体毛に覆われた臆病な獣の後頭部を眺めながら、川沿いの道を今日も歩く。夏至に向かう朝の太陽で、被毛の白い部分がハレーションを起こす。

 この子が自分の最後の犬かもしれない。

 そう思った時、わかってしまった。今この瞬間、網膜に映っているこの光景が、いずれ何度となく呼び起こすことになる、幸せな思い出そのものなのだと。あまりの眩さに蒸発してしまいそうなほどの光を放つ、まさにその記憶にな

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