「アメリカン・ビューティー」 (アメリカ映画)
アメリカの現代社会をここまでさらけ出して見せたことにまず驚く。
突飛な不良がでてくるわけでもなく
過度な暴力がでてくるわけでもなく
ここで描かれるのは、淡々とした日常の営み。普通の日常生活。
ただ、この映画を見て、この日常生活を見て、この生活の舞台となっている場所が「真っ当な社会」だと手を上げて賛成する人はいないだろう
誰しも、この日常からは社会のゆがみやひずみを感じてしまうはず。(これは映画の世界であるが、普通の日常生活を描いているに過ぎない。ということは、いかに現実社会が歪んでいるかという証明かもしれない。)
この日常生活の中で、一番ひずみを持ったものは誰か。
それは、情けない行為を繰り返す大人たちではなく、常にビデオを片手に持ち歩く少年だろう。
彼は、、、生きているものとしての人間と接することが出来ない。「生」を意図的にさけている。だから、いつもファインダーごしに日常を捕らえている。それが彼が現実を意識する手段。これしかない。
彼を日常的に捉えているのは「虚無」そして「死」というキーワード。ファインダー越しの世界は、虚構であり、ある意味、生のない、死の世界。
ラストで彼は、彼をとらえて離さなかった「死」というものに魅せられてしまう。そして引き込まれていく。おそらく、それが彼にとって初めて目の当たりにしたリアルだったのではないか。
彼だけではなく、前述の通り大人たちもやはり歪んでいる。
社会的規範、モラル。
それがきちんと整頓されたうえでの歪みならば、納得ができる部分もある。人間は、弱い生き物。人間の感情も、絶えず凹凸を繰り返す波のようなもので。そうやって人は生きている。日常をおくっている。
でも、それが歪んだ規範の上に成り立っているとしたら・・
もはや何が歪みなのかさえ見いだせない。それは社会自体の功罪なのかも知れない。
00年代にアメリカが突入した社会に、日本も遅れて突入しようとしているのだろうか。