小説 熊野ポータラカ 【第9話】 地花の滅亡とマリの失踪


次の日の朝、マリーゴールドを花瓶に生けようとして、包んだ紙に小さな紙片が添えられていることに気づいた。「Podría ser asesinado, llévame 」 日本語に訳すと「わたしをどこかにつれだして」といったニュアンスだ。しかもかなり切迫しているのがわかる。マコトはいてもたってもいられなくなり、そのままパジャマの上に、ベージュのチェスターコートを引っ掛けて自分でも驚くほどのスピードで走って「マリア・ヒメネス」に向かった。店はシャッターが閉まっていた。それから1時間おきに店を見にいったが、開店する様子はなかった。本宮の地花部落に突然の厄災が訪れたのはその翌日だった。何かの爆発があり、大火事になり、部落の建物は全て焼け落ちた。一帯は立ち入り禁止になり、新宮の花屋もそのまま営業なくなった。マコトにとって、新宮にいる理由は「マリア・ヒメネス」でマリーゴールドを買うためだけだったので、新宮にいる理由もなくなり、本宮の実家にしばらく滞在することにした。本宮の方がマリの住んでいた「地花」部落が近いから、マリと会う確率も高いのではないかとも思ったのだ。食事は毎日タイの若い女性が作る本場のタイ料理だったので、辛いものが苦手なマコトは多少閉口したが、実家の敷地は広大で、部屋数も多く、父親と顔を合わすこともあまりなかったので気楽だった。その日は、時間を持て余し、なんとなく川に向かって歩いていた。ただ河岸で、水面を見ながら、ボーと時間を潰したかったのだ。マコトは熊野の自然が好きだった。清らかな水、川のそばに立ち並ぶ青々とした木々、そよぐ風、鳥たちのさえずりは耳に心地良い。熊野本宮大社はかつて、三つの川の合流点にある「大斎原」と呼ばれる中洲にあった。約1万坪の境内にたくさんの社殿があったと子供の頃郷土史の教科書で読んだ覚えがある。明治22年の大水害までは参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らして、身を清め、神域に訪れた。高さ34mの大鳥居が入り口にある。マコトは、その鳥居をくぐり、森に入り川辺に向かった。
上流から大量のマリーゴールドが流れてくるのが見えてきた。この風家を見るのは随分久しぶりだ。上流のメキシコ人たちは不定期で「メメントモリ」というお祭を行っていて、死者に捧げるためにマリーゴールドを川に流すというのだ。小学3年生の時、この風景を偶然父親と見て、父親に聞いた時に教えてくれた。「上流には絶対に近寄るな」と強く言われたことも覚えている。500以上あるだろうマリーゴールドの花は、熊野川の風景にエキゾチックな雰囲気をもたらした。その美しさに圧倒されて、川辺に呆然と立っていると、小舟にスカルマスクをつけた髪の長い女が、川岸に向かってくる。マコトは直感した。マリだ。マスクを外すと、右頬に怪我のある美しい顔が現れた。彼女は僕のところに近づいてきた。時間が止まった。心臓の鼓動が高鳴る。マコトは気づくと足が濡れるのも気にせず船の方へ歩いていた。マリが船から降りてきた。二人で足を濡らしながら長い口づけをした。それから、その船で新宮に移動し、神倉の家に彼女を向かい入れ、一緒に住むことになった。             
「すごいマリーゴールド」マリは、家に入るなりマリーゴールドの数に驚いた。不思議なことにマリーゴールドは一本も枯れてなかった。
「まだ一本も枯れていない」
「私の愛が込められているからだわ」マリは続けて言った
「いつもマコトのことを思って、ずっと枯れませんようにとお祈りしていたの」
そしてマリの目から涙が溢れ、止まらなくなった。マコトはマリをそのまま数時間抱きしめた。
こうして、神倉の家でマリとの同棲生活が始まった。 
マリは、借金を返すために体を売っているようだった。夕方5時くらいになると派手な化粧をして家を出ていく、そして夜明け前に戻ってくる。時々、マリの姉が彼女の部屋に泊まることもあるようだった。マコトは気にしなかった。そのころからなんとなく熊野を舞台にした小説を書こうと思いはじめていた。神倉の家に古い文学本がたくさんあったし、人付き合いがあまり好きでないマコトにとって小説家はおあつらえむきの職業と思えた。10年やってみて、芽が出なかったら、実家を継げばいい。本を読んで、好きなロックを聴きながら、文章を書いて、夜は酒を飲んで寝てしまう。悪くない。時々、マリは、メキシコ料理をマコトに振る舞った。彼女のトルティーヤは抜群に美味しかった。リビングには見たことのないスパイスやテキーラが増えていった。マコトは時々、テキーラベースのカクテルを作った。そんな時は一緒に食事をして、サルサを聞いて、セックスをした。シンプルな暮らしだった。時々はマリと「フーチー・クーチー・マン」に行くこともあった。「マリア・ヒメネス」のシャッターは閉まったままだった。スペイン語で何枚か張り紙があった。

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