四角い部屋の質問者


「だから、消したの?」


しんとした空間に、灯るように落とされた声。
その声によってパチンと催眠から解かれたかのように、頭を下げうなだれていた僕はゆっくりと目を開け、顔を上げた。

目の前にいたのは真っ直ぐな瞳。
僕との間に置かれているテーブルに身を乗り上げ、顔がぶつかるんじゃないかと思うくらい前のめりに迫る正面の相手。
気圧された僕は、ずずっと椅子を引きずりながら後ろに下がった。

「いや、そんな...。」


ここは、どこだ。


驚きながらも、思い出せる限りの記憶を辿っていく。
そうだ、僕は確か見知らぬ駅を出て、道を歩いていたはずだった。


雑踏の中、慣れないスーツに身を包んで、何トンにも感じるバッグを手にあてもなく歩く。
そこは最寄り駅でもなんでもない、全く知らない駅。
家に帰る気にもなれなくて、かと言ってどこか目指す場所も思いつかなくて、ホームに来た電車に適当に乗って適当に降り、また行き先も見ずに違う電車に乗ってはそれを繰り返した。

とうとう乗れる電車がなくなって、真夜中の街灯1つない駅に降ろされる。
振り返って駅の名前を確認することもなく、そのまま伸びていた道をずっしりとした足取りで歩き始めた。


街路樹が空を覆うように鬱蒼と生い茂り、石畳の道には苔が生えかけている。
道の脇にあった公園ともつかない小さなスペース。
いくつか並んでいた丸い腰掛けのようなものに座り、僕はどさっとバッグを降ろした。
降ろした荷物ごと、魂も抜け落ちたんじゃないかというくらいの倦怠感。

今日、何があったというわけでもない。
むしろ、今日まで何もなかったことに、いい加減僕はもう再び立ち上がる気持ちを失いかけていた。
目を瞑り、頭を抱えた腕を膝の上に乗せる。

「ねぇ、聞いてる?それで、本当に消しちゃったの?」


遠くから聞こえる声にはっとして、記憶の回収から戻ってくると、そこはやはり先程のあの空間だった。
もう何度も繰り返し聞かれたような質問。
ずきずきと左上あたりの頭が痛む。平衡感覚を失うような目眩のする真四角の部屋。そしてその真ん中にある、真四角のテーブル。

テーブルには椅子が二脚。
椅子に座らされた僕の対面にいるのは、ギラギラとした目を光らせる質問者。

僕の真後ろと前方には、1つずつ扉がある。
僕はいつの間にどこからここに入って、なぜここに座らされていて、どうやったらここから出られるのか。

窓はない。
窓がないのに、なんだか四方の壁は真ん中のあたりがうっすらと青白く光っているように見える。


また、この部屋だ。
そう思ったが、わからない。
初めて来たような気もするし、もう何度となく訪れたような気分にもなる。
永遠に抜け出せない悪夢のような時間。
向こうの扉の前には腕を組んで微動だにせず、じっとこちらを見る男。
その態勢のまま、一度視線を落として腕の時計に目をやり、男は再び僕を見た。


「ねぇってば!」

男に気を取られていると、目の前から再び苛立ったような声が聞こえる。

「いや、そんなつもりは...。」

口に出したはずの返事を、もう一度答える。

「"つもりはなかった"?、けど?」

まん丸の大きな目が真正面から再度僕を突き刺す。
僕にそんな目を向けながらも、正面に座る小柄な彼は時折気まぐれに自分の爪に視線をやって、親指の端にできたささくれを引っぱったり、爪を噛むように剥がれかけた皮膚に噛みつき、がしがしとそれを取ろうとしている。
そうかと思えば、またあどけないような表情でこちらを見つめ、足をぷらぷらとさせながらひたすらに僕を見つめてくる。

「いや...違う。消してなんかいない。そんな気なんてなかった。」

「じゃあどうするつもりだったの?」

「いや、だって...。このままだと、何も変わらないと思って...。」


僕はなんとも歯切れの悪い言い訳のような、黒くてどろどろしたものを少しずつ吐露していく。
これまでのこと。これからのこと。今いる現実。
先の見えない不安の中で、自分で決断を下さなければいけないと思った。

そうするほかないんじゃないかと考えたのは本当だ。
でも、できればそんなことなんてしたくないし、できることならもっとずっと一緒にいたかった。
何よりも大切にしていたのは僕のはずだったし、僕しか守れないと思っていた。

「あなたはずっとそう望んできたんじゃないの?何が変わったの?」

今までだって色々ありながらやってきたはずなのに、一体何がどうしたんだと問い詰める声。

そう、うまくやってきたつもりだった。
不満や不安がありつつも、どうにか頑張ってきたつもりだ。
どれだけ理想と違っても、納得したり、時々どうでもよくなったりしながら、それでも気持ちを捨てきれずに今までなんとかここまでやってきた。
本当はずっとそうしていたかったし、それがどこかに繋がることを願っていた。

「でも、もう仕方がなかった。」

「だから、やめることにした?」

そう言って、さっきまで身を乗り出して僕の方に近寄っていた顔が、すーっと離れていく。

「仕方がない理由や何かの基準を決めつけているのが、君じゃなくて、君以外の何かなら、それは違う。」

僕から離れていった彼は、再び体を起こして立ち上がり、もう一度深く僕を睨みつける。
その瞳は一点の曇りもなく、僕を捉え続ける。


こういう目が苦手になったのはいつからだろう。
大人になって、ただただ時だけが過ぎていくように感じるようになって、世の中のこの目を持つ人たちを、疎ましく思ったり、直視できずに目を逸らすようになった。
何も知らないような目。
それでいて全てを悟っているかのような目。


無我夢中で自分を奮い立たせてがむしゃらに駆けずり回った結果、やっぱりどうにも耐えられなくなって、気がついたら僕はこの青白く真四角な空間で、結局また世の中で避けてきたこの目と対峙することになった。

僕を見つめながら、静かに唱えるように響く声。

「ねぇ。もっと僕を見てよ。僕は君だよ。僕こそが君だ。
僕が君の夢で、未来なのに、僕は他の誰かになんて消されたくないし、"僕"にだけはもっと消されたくない。」



「時間だ。」

決断を迫るように、入口に立っている男が扉を開けた。
空間に光が差し込んで顔がはっきりと見える。あれも、僕だ。


明るくなった部屋には、何人もの僕がいた。
隅の方で、頭を抱えて座り込む僕。地べたに這いつくばって何かの小さな欠片のようなものを必死に積み上げる僕。
もう一方の隅には、ぐだっと横に寝転びそれをつまらなそうに眺める僕。その向こうには壁に向かって、にこにこ、ぺこぺこと頭を下げ軽快に口を動かす僕。


「本当に僕を...消すの?」

すとんと正面の椅子に座り直した小さな僕が、もう一度僕に聞いた。

扉を開けた無表情の僕の先には、何本もの道が続いている。
白く細長い線が、樹木のように広がっていて、向こう側は見えない。


僕はその問いには答えられず、そして無言で席を立った。
この部屋に押し込められたいろいろな僕を見渡しながら、ドアの前までゆっくりと歩いて行く。
笑っている僕。怒っている僕。泣いている僕。何かを祈る僕。そして感情をなくしたようにぼーっとどこか一点を見つめる僕。

開けられた扉の前に立ち、その先を眺めながら思った。
長い。長いなぁ。
でも、もしかすると本当はそんなに長くもないのかもしれない。
だって、先は何も見えないのだから。

しばらくその扉の前で立ち止まった後、僕は言った。


「ごめん、やっぱりまだ決められない。」

扉の前に立っていた"決めなきゃ、決断しなきゃ"と「この先」を危惧していた僕が眉をひそめる。

「また同じことを繰り返すのか?いつまでそうしているつもりだ。」

「わかってる。君の気持ちもよくわかる。どうにもならないまま、ずっと歩き続けるのがもどかしいし、苦しいのも痛いくらいわかってる。僕だってもう安心したいし、安心させたい人だっている。
でも、もう少し、もう少しだけ待ってくれないか。どうにもできないかもしれないけど、僕は...まだあいつを消せない。」

そう言って、僕は後ろの椅子に座っていた小さな僕に手を差し出した。

「まだ、君の願いを叶えられそうにない。でも、もう少しだけ一緒に歩いてくれないか。」

静かに笑って椅子からすとんと飛び降りた幼い僕が後ろからついてきた。
そして僕は、あの日夢を描いた僕の手を引いて、その青白い部屋から出た。


無数に伸びる真っ白な道。
その先もさらに真っ白で、何も見えない。

これは無の白か、無限の白か。

道の先がどうであれ、それでもまだやっぱり離したくないと、僕は幼い僕の手をもう一度しっかり握り直して、扉の向こうに足を進める。
扉の前にずっと立っていた僕が、目を瞑り小さなため息を漏らしながら四角い部屋に入っていった。


「いつか、いつか必ず...。」

そうつぶやくように言いながら僕は部屋から出て歩き出した。

「あのさ、いつかが来るかもしれないし、いつかなんて来なくてもいいよ。でも、ずっと一緒にいようよ。」

幼い僕が僕を見上げながらそう言って、僕の手を強く握り返した。

白い道がぽぅっとより一層白く光った気がした。

ひときわ光る道を出て、眩しさで閉ざしていた視界を取り戻すように目を開けると、そこは僕が降り立ったあの名も知らない駅の街路樹の通りだった。
あたりはもう薄く白けてきている。


進まなきゃ。
そうだ。僕はまだ、きっと歩ける。
繋いでいたはずの小さな手はいつの間にかいなくなっていた。
一度手のひらを見つめてから、僕は再び手を繋ぐように拳を握って、駅に向かって歩き出した。

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