今でもなお。 20.2.14
いよいよ最終回まで二か月を切った昼ドラ『やすらぎの刻~道』。
ここに来る方のほとんどがご覧になっていないかもしれないので、簡単に内容を説明すると、
元有名俳優・テレビスタッフが入居する老人ホームが舞台の『やすらぎ』、
主人公の脚本家菊村栄(石坂浩二)の脚本として描かれる『道』、
これらが交互に放送される。
去年の四月から放送が開始されていて、帯ドラファンの僕は毎日観ているのだが、その中ではいくつか「……ん?」と思うシーンもあった。
ただ、これは「老人たちの無責任な噂話」を前面に押し出していたので、しぶしぶながらもそれ以上は追求しなかったのだが……。
それから五か月後、またもや強い違和感を覚えるシーンが登場した。
劇中ドラマ『道』で、平成10年ごろの設定。
主人公公平(橋爪功)の幼馴染「ハゲ」(ミッキー・カーチス)が心筋梗塞で亡くなり、帰り道立ち寄った鎮守様の小屋で、公平と「ニキビ」(山本圭)が、戦中・戦後の思い出話をする。
以下長くなるが、そのシーンのニキビのセリフをほぼ全文採録する。
さて、どうだろう。
ドラマなので、こういう事実があったかどうかはわからない。しかし、それを「喜劇」として描かれ(ようとし)ているのはわかる。
どこが面白いのだろうか。
前半のニキビの話をまとめると
これらのどこに「喜劇」要素があるのだろうか。ボーヤが自分から黒人兵に近づいたのではない、拉致をされたのだ。
「ヘロヘロ」「ヨレヨレ」と、滑稽風に取り繕っているが、つまるところそこで行われたのは、性的暴行である。
それを「笑い話」として扱うことが、その感覚が、それを令和の時代に、地上波ドラマで堂々と放送することが信じられない。
この『道』パートはそもそも、満州で性的暴行を受け、精神に異常をきたした妹(加賀まりこ)と、日本に帰ったのち生活のために娼婦になった姉(浅丘ルリ子)の物語が核になっている。
もちろんながらそれは完全なる悲劇として書かれ、茶化すようなセリフ・演出は一切登場しない。
男だと「喜劇」で、女だと「悲劇」。
受けた暴行の内容は同じなのに、性別が違うというだけで、なぜ同じドラマの中で180度違う扱いを受けるのだろうか。
また、ニキビの話後半での、
とは、同性愛は特殊な条件下で発生し、かつ本人の意志でやめることができる、という意味なのだろうか。
久々に……
久々に、昭和の「あの時代」に戻った感覚を味わった。
「ホモ・オカマを出しておけば笑いが取れる」「同性愛は病気・一時の気の迷い(のようなもの)」――と思われていた。
先日ツイッターでアンケート投票をご依頼した『アリバイ崩し承ります』と、一見ゲイに対する扱いが似ているようにも思えるが、
『アリバイ~』はまだ非現実的なコメディー(絵空事)として描写されているのに対し、こちらは、なまじ大脚本家の筆による大作なので、視聴者に対する影響力も比ベ物にならない。
なぜ倉本先生が、前回の「(男が前立腺を摘出すると)コッチになっちゃうの」に引き続き、このようなシーンをお書きになったのかはわからない。
ただ、あえて言えば異色兄妹の回でも明白な通り、浮気を隠し通せと勧めるニキビも、自分が引き起こした厄介事を孫に丸投げした公平も、やや人間性に問題があるので、「自分の愚かさを棚に置いた、老人たちの戯れ言」と取れなくもない。
けれども、この『やすらぎ』シリーズは、倉本先生の「脚本家人生の集大成」とも言える作品であり、なぜそこで……という気持ちも拭い去れない。
だが、これが現実なのだ。
去年の紅白でドラァグクイーンが踊り、レインボーフラッグが大写しになっても、翌年のドラマでは「オネエの検視官」が男を追い回し、悲劇でしかない出来事が「喜劇」にすり替えられる。
これが、現実なのだ。
2020年の今でもなお。
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