今年も何かしらの成功はあったはずだ。 ポジティブなできごともあったはずだ。 確かに今年は重苦しさや不透明も長かった。 それでも思いがけない発見、何らかの手ごたえ、変化の予感… 新しい光が見えた心躍る瞬間を連ねていけば2021年の約束も見えてくるだろう。
無理に新しいことを求めるのではない。 古いと思っていたことに意外な驚きがあったりする。 何も起こっていないようで小さな喜びはふとした瞬間に訪れる。 またこうして一年が過ぎていくが、ただ過ぎていったわけではない。 流れる時間の中で見てきたものは常にエフェメラルな美しさ。
写真という表現の意味、何を撮りどう見せるか。 今そこにあるものは二度と現れないというエフェメラルな存在。 あるいは撮らなければ写真にならないというひとつの呪いのようなもの。 写真は様々な要素から考えてこそ楽しい、というより様々な要素で考えないと何も撮っていないに同じ。
その一枚を撮るだけで運命が変わるわけではないけれど、 撮った写真が何かを教えてくれることもある。 写真に動かされまた新しく風景を撮る。 風景も心も変わり続ける。 生きながら死に、毎日でも死にそして生き返す。
写真はシーンを浮かび上がらせる。 リアルな感覚と結びついた街の記憶。 一人一人が思い浮かべるシーンが写真として現前する。 その街を知る人はもちろん、たとえ知らない街であっても、忘れ物を見つけたような感覚。 時間の中で浮かんでは消えてゆくエフェメラルなシーン。
うつろい。 過ぎゆくことは振り返ることができないからこそ感情をかきたてるのか。 消えゆくものへの愛惜。 うつろいとはまた新しさである。 変わらないものはない、それはいつも見ている風景もまた同じである。 哀しいエフェメラルも美しいエフェメラルも。
電線のある風景と季節。 街にあるものはいつも同じに見えるが決してそういうわけではない。 色づく木の葉のエフェメラル、いまそこにあるものの美しさ。 電線も秋の陽光でその季節ならではの輝きを帯びる。 その風景を見つけられることが小さな喜び。
忘れること、思い出すこと。 何かを得れば、同時に失う。 失われたものを取り戻すべく過去がある。 写真が何かを思い出させる。 過去に立ち返ることで未来が浮かび上がってくる。
水と一体化する。 夏の思い出を駆け足で。 名残の日差しを涼やかに過ごす。 冷たい水が鋭い感覚の起点となる。
言葉がなくても写真は成立する。 それでも写真を考察するには言葉が大きな役割を果たす。 そもそも我々は言葉から逃れることはできない。 写真が芸術であると標榜するなら尚更であろう。 だからこうして写真から言葉を手繰り寄せることで新しい地平へ。
ある意味写真らしいもの。 狙って撮れるものではない、つまり意図しない表現。 風景の新しい見方である。 あるいは幻影、人は得てして見たいように風景を解釈する。
空き地を埋める草。 知らない間に緑で覆い尽くされる。 建物があったころの記憶が薄れ、エフェメラルな風景がまた見えてくる。 風が通り過ぎる、名残のように揺れ続ける緑。
そこは安住の地ではない。 根を下ろしているようで季節が廻れば姿を消す。 あるいは新たな来訪者がそこに現れるかもしれない。 全て移りゆく中、エフェメラルにある。 植物は無言なようで雄弁である。
夏の気分に浸った心地のしないうちに、もう半分以上過ぎている。 立秋を越え日も少し短くなってきている。 それでもまだ夏の日差しはそこにある。 季節の写真を撮り損ねていないか。 エフェメラルな移ろいの美しさは今そのときにある。
駅の詩情。 鳥もまた電車が来るのを待っている。 待つという事は未来への期待。 次に何かが起こるからそこで待っている。 時が来ればまた違う景色。 言葉を繰らせるエフェメラル。
ephemeralなepisode 街並みのシーンに現れる一瞬のできごと。 何かの意思をもってそこにあるのかもしれないし、まったくの偶然かもしれない。 次のシーンでそれが残っているかは誰にもわからない。
写真と心情。 心が写真を撮らせるが、心情がそこに写るわけではない。 風景という詩情。 そこに心情を投影するために写真がある。 あるいは溢れる余情を受け止める器としての写真。