バタイユそのものが外的権威として用いられるのを見ると、そうじゃないだろうと思ってしまう。かれの言葉はコミュニカシオンの上でこそ語られるべきであろう。かれが「無神学大全」で論理的展開を拒んでいるように見えるのは、その配慮があってこそのことなのだから。
ブランショほど精密な作家が、死の影を追いかけるにあたって焼尽する(=自己供儀に奔る)エリクチュールを用いらざるを得なかったとするなら、『謎の男トマ』ほど興味深いテクストはありえまい。
『謎の男トマ』は死への漸近を反復するエリクチュールであり、そして死の不可能性に達することで至高性を得る(=聖変化する)エリクチュールの体験である。トマが「不在の不在の不在……」と呟く時、そこにはエリクチュールの極北が口を開けているのだ。
おそらくは未完成であり続けることこそがバタイユ思想を語るうえで最も適切な方法なのだろう。その際に、バタイユ-ブランショ的な対立構造の保持(使い道のない否定性,中性)は一つのキーとなることだろう。