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 傷は異様な物であり、私は深く切り裂かれている。その時の外傷は語ることを激しく恐れており、私はもはや言葉を失うことでしか、その傷を語ることが出来ない。私は心理的な物が激しく流血しているのを感じる…………

 病人の事を思う。死期が確定し、創造主の御許へと逝かんとしている病人のことを。そして、その周りで、あたかも儀礼的な意識として笑顔を表明することしかできないでいる浅薄な肉体たちを。

 私は引き裂かれながら、首を自分でも猜疑的に横に振りながら、その不安が来るのを感じている。傷は不安であり、不安のなかでは義務と混沌とが深くないまぜになっている。私は絡まる有刺鉄線を突き破ろうとして、どこかで不可能を笑う事・・・・・・・を冀っている。

 傷とは一つの迷宮であり、迷い込むことしかできない空間である。語ろうとすれば「恐れ」が脱落した文言が流出し、そうではないと私は激しく頭を打ちつける。この傷を言語的な帰納へと導くことは不可能だ。だが、恐らく傷を深く語るには、沈黙こそが何よりも適切な方法なのだろう…………

 傷のなかでは激しい恐れが発生している。「聖」を指す言葉が、同時に「汚らわしさ」を意味しているように、私は吐くようにしてそのことを語っている。

 私には、助けてくれ、とさえ言うことが出来ない。一体だれを助けるべきなのか、私にはまったく見当もつかないのだ。

 分からない。分からない。分からない。私には何も分からない。傷が分からない。私が分からない。どのような理論的な建築を行っても、全ては忌々しいインセストのように瓦解していく。私は分からないと盛り上がる喉元から弱々しく吐き出すが、それでもなお語ろうとして終えることができないでいる。

 私が傷を見たとき、私は全てを知った気がした。これから一体傷がどうなるのか、そしてどのような闇が広がっており、また傷がどのような絶望に埋没している存在なのか。傷は涙声で語り、私はもはや耳をふさぐことはできないでいる。吐きながら、絶望的な「分裂」の気配を肉体は警告している。

 どのような合理的主体の措定も、傷という蠕動のなかでは外在的な響きしか持ちえていない。私は、という言葉は全て破壊されていく。私の傷を語ることが出来るのはヘーゲル的な精神主体でもなければ、カント的な目的論者でもなく、デカルトの考える主体でさえない(論理の文法上では合理的だと理解できるものの、私の傷について語ることが出来たのは一人もいなかった)。私の傷を唯一語ることが出来ているのは、「有罪者」を記しているバタイユであり、戦争のたびに思想を蹴散らされているバタイユであり、そしてカミュ的な不条理の罪人であり続けているバタイユ、その人だけだった。

 ラカンは構造化された無意識を考案したが、その自我の真ん中はちょうど「穴」であると説明する。自我は反映の堆積であるが、その真ん中は空虚なる穴である。
 もし私が発狂したように笑うことさえできれば、この傷を止揚とさえいえない不条理に投げ込むことさえできれば、私はその空席に辿り着くことが出来るのだろうか…………

 傷は死ぬのだろうか? 病は死ぬのだろうか? 死は死ぬのだろうか?

 私は便器に頭を突っ伏しながら涙で濡れた文章を書いている。だがこの文章は痛みも哀しみも禍々しさをも持ち得てはいないようだと気づいている。無意味でありいつかは恥じらいの後に削除されるだろうことを諒解している。だが、これ以上に私は語ることが出来なかったのであり、それこそが私の限界の表明に他ならないと私は考えている。

 部屋には存在しないロープが吊り下がっている。いつかは、という空虚な未来を円環の裡に照らしながら、そのロープはいつか来たる禍々しさと完結を予告している。私は傷の中に、そんな死臭を感じ取っている…………

 義務の破壊を提示された義務者は、一体どのようにして義務を図るのか?
 思想の否定をマニフェストに掲げる政治家は、どのようにしてその思想を排斥しようと試みるのか?
 クレタ島の嘘つきは、いったいどのようにしてその嘘を表明するというのだろうか?

 語られないものを語るとき、────とウィトゲンシュタインとカミュとバタイユは続ける────人間は沈黙しなければならない。

 深き処より主よ、────私は阿呆だ。


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