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自省

 いつも痛みだった。始まりはいつも痛みだった。そして終わりは始まりの再現で、それゆえ痛みは、終始俺とともにあるのだった。  無くしたものの痛みだった。いつも、無くしたものばかり痛んでいた。どんな傷口も、取り戻すには遅すぎた。  自壊すればするほど至高のために震えた。病んだ身体が拍動するごとに血を吐いた。重々しい喀血が、軽々とした身体のために、冴え渡った。  より低くおのれを恃むのは、ただ深い光に、心惹かれたためだ。  この四汁にまみれた口内が、対話のために語彙を吐く。

    • 俺を撃ち抜いてくれ

       十八歳というのは願望と現実との間で引き裂かれる残酷な時期だ。欲しいものが手に入らないことに焦燥を覚え、手に入ったものがすぐに風化することに絶望を覚える。どうやらこの時期になると、自己顕示欲が強くなりすぎるようだ。「自分が」という主語の強さに抗いきれないのを、私自身いつも感じている。そのためであろう、私がラカンの「去勢」やバタイユ=ブランショの「コミュニカシオン」、そしてドゥルーズ=ガタリの「逃走」に興味を示しているというのは。私は恐らく、自分という重力からの脱却を目指してい

      • バタイユそのものが外的権威として用いられるのを見ると、そうじゃないだろうと思ってしまう。かれの言葉はコミュニカシオンの上でこそ語られるべきであろう。かれが「無神学大全」で論理的展開を拒んでいるように見えるのは、その配慮があってこそのことなのだから。

        • 砂漠と独語

           言葉はいつも遠かった。と、書くことさえも私には嘘のような気がしてならなかった。まるで生まれたての灰燼のように言葉は指先と触れ合うたび崩れていった。そうして私の手のなかには、いつも細かな砂塵だけが残っていた。  未完成の呪い。どうして人は完成などという大それたことが出来るのだろうと私は訝っている。恒久的な完成などというものは存在しない。完成とは彼岸にある行為だ。そして此岸で行える完成はいつも彼岸の完成を指示している。  孤独というのは恐らくこのような触れたもの全てを崩壊さ

        • 俺を撃ち抜いてくれ

        • バタイユそのものが外的権威として用いられるのを見ると、そうじゃないだろうと思ってしまう。かれの言葉はコミュニカシオンの上でこそ語られるべきであろう。かれが「無神学大全」で論理的展開を拒んでいるように見えるのは、その配慮があってこそのことなのだから。

        • 砂漠と独語

          ブランショほど精密な作家が、死の影を追いかけるにあたって焼尽する(=自己供儀に奔る)エリクチュールを用いらざるを得なかったとするなら、『謎の男トマ』ほど興味深いテクストはありえまい。

          ブランショほど精密な作家が、死の影を追いかけるにあたって焼尽する(=自己供儀に奔る)エリクチュールを用いらざるを得なかったとするなら、『謎の男トマ』ほど興味深いテクストはありえまい。

          『謎の男トマ』は死への漸近を反復するエリクチュールであり、そして死の不可能性に達することで至高性を得る(=聖変化する)エリクチュールの体験である。トマが「不在の不在の不在……」と呟く時、そこにはエリクチュールの極北が口を開けているのだ。

          『謎の男トマ』は死への漸近を反復するエリクチュールであり、そして死の不可能性に達することで至高性を得る(=聖変化する)エリクチュールの体験である。トマが「不在の不在の不在……」と呟く時、そこにはエリクチュールの極北が口を開けているのだ。

          おそらくは未完成であり続けることこそがバタイユ思想を語るうえで最も適切な方法なのだろう。その際に、バタイユ-ブランショ的な対立構造の保持(使い道のない否定性,中性)は一つのキーとなることだろう。

          おそらくは未完成であり続けることこそがバタイユ思想を語るうえで最も適切な方法なのだろう。その際に、バタイユ-ブランショ的な対立構造の保持(使い道のない否定性,中性)は一つのキーとなることだろう。

          讃美歌

           私は強烈な殺意だ。他人からの要請と決して充足しえない願望のために、いつも煩悶しつつ猛っている…………  鏡の中には恥じらいや哀しみさえもない一対の瞳があった。もう何もかもがどうでもいいのだとでも言いたげな黒い目だった。恥じらいや哀しみさえも介入する余地のない視線の中で、冷たいものが動くのを私は感じていた。  私が愛しているのは無垢さだ。打算から抜け出で、自由を体現し続けるイノセントさだ。  人々は「善」「正義」「利益」という概念にその身を隷従させている為、私に重々しい感

          讃美歌

          讃美歌

           ああ、裏切りが私を傷つけていく。何もかもが私の脳髄を掴んでは揺さぶって破壊しようと企てを働く。なぜ私はこんな目に遭わねばならない、そう言いかけて、私は口を閉じる。英雄的ではないことが、どこまでも俗的であることが、私にとっては甚だしく恐ろしいのだった。それは或る意味で最後の抵抗だったのだろう。非連続に際した人間にあって、私の名前は長らく遺り続けるだろうという確信ほど、連続に対する希望はありえまい。  貴方はいつか死ぬんですよ。  ええ、そうでしょうね。  例えばこんなふうに

          讃美歌

           激しく傷つきながら、あるいは自分を傷つけながら、どこに出口があるのかと叫び続ける。しかしながら光はなく、よって闇もなく、あたりはただぼんやりとした無で覆われている。  私は傷について哲学を持っている、────傷に対して「何故なのか」と聞いてはならない。理由などないのだから。あったところで笑うしかあるまい。  そしてある日、私は発見したのだ。傷ついた後に、無感覚になれる瞬間が数秒間だけあることに。  それは一種の救済なんじゃなかろうかと私には思われた。痛みを払えば無感覚が返

          借りた余白に

           人間の営為は精神病理として見るには些か魔術的なきらいがある。  しかしそのことを再発見するには、無神論者の光学が要るようだ。  灰燼の中から火焔を立ち上げること。或いは、文章から幻視を生み出すこと。────限りなく共時的でありながらも、限りなく通時的であり続けること。無神論者は、その二物の狭間で生きねばならない。  思考が私の頭のなかに侵入してくる。殺人的なアイディアから慈愛に満ちた眼差しまで、ありとあらゆる周波数が私を通過していく。  その交差点にあって笑うことほど、

          借りた余白に

          市川沙央『ハンチバック』

           この本に対して「よう分からんかったわ」と言った友人がいた。  彼の気持ちは分からないわけではない。  この物語では、主人公が欲するところの中絶が行われるわけではない。  この物語では、主人公の「障碍」ゆえに衝突が発生するわけではない。  この物語では、主人公が現世から脱して涅槃へと達するわけではない。  この物語は「摩擦」を回避する。「障碍者と健常者とが衝突し、やがては互いを認め合うと、和解する」というような話ではない。  そりゃそうだろう。そもそもが衝突(≒摩擦)さえ

          市川沙央『ハンチバック』

          色んな事について書いてみる

          クリストファー・ノーラン曰く、「映画は映画館で観るものだ」 今ハリウッドでは、映画のストリーミング・サーヴィスによる報酬の減少やAIによる俳優の肖像権保護の問題を巡って、大規模なストライキが起こっている。  当然、両者の間で話し合いの場は幾度となく持たれはしたのだが、労働組合は「希望を十分に満たしていない」として、労働争議は目下継続中である。  その煽りを受けて日本でも、名立たる映画スターたちが来日を延期したり、或いは取り止めたりと、数々の影響が出ている…………  にしても

          色んな事について書いてみる

          生き残ったのは俺たちだけだ

          Conversation with noises おまえはノイズまみれの電話に耳を澄ませながら、「生き残ったのは俺たちだけだ」と言う。周りの奴らは全員死んだ。俺たちだけが生き残った。俺たちは最後の生き残りだ。  電話先の男はそれを聞いている。手には美味くもないタバコの紫煙が立ち上っている。かれは静かに吟味するなり、じゃあこれからどうすればいい、と、呟くように言った。  ノイズから応答を受け取ったおまえは、髪の毛を混ぜ回す。  どうもこうもないさ、俺たちは────  かち、か

          生き残ったのは俺たちだけだ

          青空と断想

           事象には表面張力というものがある。  私たちは奇妙な連続性の中でそのことを忘れてしまうが、物体には万有引力があり、我々は引力と引力との均衡の中で絶えず引き裂かれているのだ。それは重力によって地球に磔にされたおのれを鑑みれば容易に分かる。あの遠くにある恒星も、観測不能なほど僅少な共犯関係を我々と結んでいるのだ。  その引力によって、世界は展開していく。それはAとの出会いであり、また同時にAとの惜別である。そこに言語を絶する深い不可逆の峡谷があるのは言うまでもない。我々が見知ら

          青空と断想

          死の恐怖は主を弑せよと私に命じた

           「死の恐怖を取り戻せ」という記述を見た時に感じたどうしようもない失望は仕舞っておこう。あまりの怒りにスマホを公園の噴水に投げ込みそうになった。その時私は、喪服を着ていたかもしれないし、着ていなかったかもしれない。どっちだっていいだろう?  さて、noteに戻ってきた。だがあんたらのためではない。ここにいない友人のためだ。非難なら好きなだけすればいい。  以上、業務連絡おわり。

          死の恐怖は主を弑せよと私に命じた