バタイユそのものが外的権威として用いられるのを見ると、そうじゃないだろうと思ってしまう。かれの言葉はコミュニカシオンの上でこそ語られるべきであろう。かれが「無神学大全」で論理的展開を拒んでいるように見えるのは、その配慮があってこそのことなのだから。

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