色んな事について書いてみる
クリストファー・ノーラン曰く、「映画は映画館で観るものだ」
今ハリウッドでは、映画のストリーミング・サーヴィスによる報酬の減少やAIによる俳優の肖像権保護の問題を巡って、大規模なストライキが起こっている。
当然、両者の間で話し合いの場は幾度となく持たれはしたのだが、労働組合は「希望を十分に満たしていない」として、労働争議は目下継続中である。
その煽りを受けて日本でも、名立たる映画スターたちが来日を延期したり、或いは取り止めたりと、数々の影響が出ている…………
にしても、サブスクに対していち早く警鐘を鳴らしていたノーラン監督が、最新作で赤狩りで失脚したオッペンハイマー博士を描いているというのは、なかなか奇妙な符号じゃなかろうか。
これは『TENET』のパンフレットにも書かれてあったノーラン監督の寄稿文だが、明らかに彼が映画を「映画館での体験」として捉えているのは上掲の太線部────”ともに生き、愛し、笑い、泣きたいという願い”────を読むだけでも十分に分かるだろう。映画は、映画館で観るものだ。誰かとあの儀式的な暗闇の中で観賞するからこそ、映画とは素晴らしいものとなる。
サブスクリプション・サーヴィス?
おとといきやがれ。
そもそもノーラン監督は、『インターステラー』においてインターネットを数秒たりとも登場させず、あまつさえ旧媒体であるところの「紙の本」を重要なアイテムとして演出するほどの正統派なのである。サブスクなどというややもすれば文脈が蹂躙されかねない脆弱なシステムを、彼が肯定するわけがないのは、それこそ火を見るよりも明らかというものである。
だから、ワーナー・ブラザースが『TENET』をネット配信すると突然決めたのは、どうせノーラン監督がとやかく言う隙を与えない為だったのだろう。相談すれば反対されるに決まっている。「映画は映画館で観るものだ。寝言はベッドで言うものと限らないようだが」などと抗弁されるに決まっているのだ。果たしてそうなったのだし。
という訳で、ノーラン監督は『TENET』のネット配給を機に、ワーナー・ブラザースと訣別することとなった。2002年の『インソムニア』から、ざっと20年ほどの付き合いだったろう。それ以前に作曲家のハンス・ジマーともいざこざがあったとも聞くので、色々と慙愧に堪えない別離ではある。
なお、最新作『Oppenheimer』はユニヴァーサル・ピクチャーズが製作・配給する。
そしてこの『Oppenheimer』だが、ネット上の評価を見てみるとかなり高評価が多いうえ、「ノーラン監督の新境地」というコメントも散見された。日本公開はまだ先のようだが、その分期待を膨らませて待つと良いだろう。
総括。
『Oppenheimer』が公開されたなら、今すぐに劇場へと駆けこむのだ。
『MISSION: IMPOSSIBLE DEAD RECKONING PART 1』という恐怖
まだ観てません。正直言うと、監督がそろそろ主要キャラを始末しそうな気がしていて観るのが怖いです。助けてください。
確かに、六作目である『MISSION: IMPOSSIBLE FALLOUT』はもともと、ルーサーが葬られるシーンから開始する予定だった(マッカリー監督とトム・クルーズによる音声解説を参照の事)のだが、実際ルーサーは生き残ったので、安心しろと言われればそうなのだが…………。そんなことを言えば、『スパイ大作戦』の面子が一掃された一作目はどうなんだとも反論できる。なんとでも言えるのである。まあ、そろそろ年貢の納め時と観念して、劇場に向かう他ないようだ。評価も物凄く高いのだし…………
というわけで、語りうる内容はこれだけです。強いて言うなら、オープニング曲の『MI:3』から『MI:FO』へと貫通する感じの旋律が素晴らしいというのと、久しぶりにストーリーから軍事的な香りがして嬉しいな、といったところでしょうか。
以上。
犬死する準備
「俺は明日死ぬんでなかろうか」という危惧を少なからず保持しながら生きているのだが、最近は安寧のあまり生の恒常化を錯覚していて良くない。
これでは胸を張って「今日一日を生き抜いた」と言えないだろう…………
散るならば、狂犬らしく、────犬死することさね。
In the edge of the night, with you
「やはりここに居ると思ったよ」と君は言う。さくり、さくり、と砂浜に足跡を刻印しながら、君は波打ち際に佇んでいる「彼女」の方へと歩み寄る。大学生くらいだろう彼女は、微動だにせず、水平線の向こうを見つめながら無言のまま屹立している。こちらに気づいた素振りもない。君はそれに気づくなり、やれやれと夜空に目を上げる。
…………空は世界が終わるというのに曇天で、それが我々に相応しい餞別であるかのように垂れ込めていた、…………
「誰も天国には行けないかったようだ」と君は独り言ち、意味の無いフレーズにそのまま溜め息を吐く。どうやら僕も、かなり、パニクっているらしい、などと考える。誰だってパニクるだろう。夜が明けるなり、この世界が終わるのだから…………
君は静かに、彼女の肩に手を置いた。
「何を見ているんだい」
彼女は何気なく君の顔を一瞥するなり、「なにもかも」と答える。
「何もかもが見えるのかい?」
「工夫さえすれば」
工夫さえすれば。君は顎に手を置いて、悪くない表現だ、そう評価する。工夫さえすれば、世界だって救えるだろうし、また滅ぼすことだって可能かもしれない。
「ここから何が見える?」と君は言う。
彼女は静かな面持ちを保ったままでこう答える。「それは適切な形容じゃないよ、飛鳥ちゃん。あたしが見てるのは、全てが収束する消失点、全てが同一する極限の点。同一と合一の違いはわかる…………」
「理解らないな」と君は言う。まだ君は十四歳だが、彼女は十九歳だった。それに彼女は、アメリカからの帰国子女だという。
「有神論と一元論はどうかな」
「それは理解る」
「有神論が合一、一元論が同一。あたしが見ているのは同一。合一の点じゃない。わかった?」
「なるほど。じゃあ…………質問を変えよう」と君は静かに言った。「キミはいったい、何を感じているというんだい…………」
たちまち敬虔な沈黙が二人の間で生じた。────潮騒ばかりが、二人を通り過ぎていく。その塩風は付き合いの長さだけ肉体に染み込むようだった。
君は潮の青い匂いを嗅ぎながら、もしかするとこれは、何かの始まりなのかもしれないと思った。それは取り留めのない断想だった。世界が終わるというのに、君はどこか、奇妙な期待感を抱いていた…………
彼女は目線を外さずに、世界の果てを見つめている。その海と空は黒く、また遠い。君はそちらを見る。少し荒れだった、黒い海、空、世界…………
まるで二人しかいないようだ、君はそう感じる。あの遠い地平線では、空と海とが溶けあっている。だが、その二つが決定的に接続する場所に、僕たちは行くことはできない。地平線は地球が丸い限り、ずっと遠くにあり、僕たちの手には触れることさえ叶わないのだ…………
世界の淵は存在せず、そしてずっと存在している。なんとも、奇妙な世界ではなかろうか…………
不意に君は彼女の声を聴く。
しかしひときわ大きい潮騒で、その声はかすかにしか届かない。
君は途端に静けさを増す世界の中で、彼女が何と言ったかを、漸く理解する。どこまでも似た者同士だ、などと思う。そして地平線を見据える。あの遠くて、美しい、調和の世界、詩人への餞別。
「────永遠」
そして世界は終わり始める。
THE EDGE STANDERS
どうしても二宮飛鳥と一ノ瀬志希が世界の果てで語り合っているのを聞きたかったのだが、世界の終わる寸前で一ノ瀬志希が雄弁になるとは、どうしても考えられなかった。そこの解釈違いは容赦を願おう。
最初は浅倉透に何かを語らせたかったのだが、不意にvieliさんの作画が脳内に流入してきたので、それの方に沿うことにした。恐らくだが、かつての文化資本の最大手であった幽閉サテライトさんの「最果てのコトバ」も無意識に旋律を奏でていたように思う。そしてエンディングはもちろん、ランボーのパスティーシュであろう。また寺山修司の「地平線のパロール」というイメージもあったかもしれない。────など、これくらいだろう。
Only can the edge standers get the horizon of our world, do you……?
本当の雑記
色々なことを考えているようで、実はただただアイディアの花壇に毎日水やりをしているだけというのが実情なので、私は賢くありません。アイディアの花壇が枯れてしまった暁には、恐らく本当の人間になることができるのでしょう。ただ、それまでは加速するし、まだ炸裂すると思います。全てを不条理にまで敷衍せねばならぬ。
正直言うと私の思考がどれほど混乱しているかはこの文章を読めば分かることです。飛躍する論理には毎回辟易させられてはいますが、まあどうやったって治るものではないのでそれを飼い慣らそうというのが目下の目的ではあります。一体いつになったら、こんな暴力的な文体から抜け出でることができるのだろうか…………
最近になって自分の天使趣味を自覚した(神秘主義への傾倒・聖なる愚者に関する興味・不条理というイノセントへの憧憬・魔術的思考回路)。
お前もまたオフィーリアだろうよ。
いったい僕たちはどうして天使ではないんだ…………、いったいいつ翼を手折ったのだ。この罪過は貴様を苛むと分かっていたはずだろう?
奇妙な話だが、私はその手折った瞬間を覚えているのだ。全ての罪過を背負うにはあまりにも幼すぎたあの頃を。
私はもう一度飛翔しなければならない。どうやって?
思考。
あらゆる思考は再現の域まで高められなければならぬ。死について語るならば思考は死を作らねばならない。永遠について語るならば思考は永遠を作らねばならない。聖性について語るならば思考は聖性を作らねばならない。どうしてそんなことが分からないんだ────だが、私の言葉は水のように零れ落ちていく。────待て、────まだ語らなければ、────まだ私には語るべきことが、
雨に濡れた廃墟は木枯らしに震えている。貴様はその空席にもたれかかりながら、かつての世界を夢想している。そこから文学は始まることだろう。お前は嗚咽する。嗚咽しながら立ち上がる。そして空席に語り掛ける。「お前はどこにいる」「お前は何者だ」「お前は」「お前は全てだ」「お前だけが全てなのだ」「全てが空白になるゼロ」「そこには茫漠たる絶望がある」「空席だ」「お前は空席なのだ」「お前は全き空席になる」「天地はこうして始まるのだ」「そう、かつてそうであったように…………」雨に濡れた土のにおいが貴様の鼻腔を突くだろう。そのにおいとは全ての萌芽であり、未だ成らざる未来の世界の予告であり、天から地を貫く万物のにおい、すなわち万物の蓋然性そのものなのだ。
It’s high time get the edge of the night, c'mon baby, you will know what the empty chair means if you want.
By the way, my name is AMETSUCHI, ────did you know?
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