借りた余白に

 人間の営為は精神病理として見るには些か魔術的なきらいがある。
 しかしそのことを再発見するには、無神論者の光学が要るようだ。

 灰燼の中から火焔を立ち上げること。或いは、文章から幻視ヴィジョンを生み出すこと。────限りなく共時的でありながらも、限りなく通時的であり続けること。無神論者は、その二物の狭間で生きねばならない。

 思考が私の頭のなかに侵入してくる。殺人的なアイディアから慈愛に満ちた眼差しまで、ありとあらゆる周波数が私を通過していく。
 その交差点にあって笑うことほど、神聖なことはないのだ。

 人はルーレットに興じるようにして美徳について語るべきだ。

 自意識ほど醜いものはないが、もし罪を受け入れる主体として自意識が実装されたというのなら、人は一つの牢獄なのではなかろうか。それは時として城塞として作用するが、やはりそれは…………

 人は往々にして「同情」という名の擬人化を相手に施してしまう。
 しかし、相手を一己の不条理としてではなく人間として扱うことは、時として無礼に当たるのではないか。「ああ、あなたがそんなことをする人だったなんて……!」

 裏切られ続けること。そうすれば、知らないでいられるだろう。(しかしながら、人は知るのだ…………。それが如何にして起こるのか、それは一考に値する問題である。)

 無垢とは何だろうか。────行き場を失った言葉。

 特権化する物事を持たない聖人において、慈悲は残酷の色を帯びている。

 相対的な物の考え方は、恐らくは人の性であるのだろう。
 一〇〇〇の脳理論いわく、脳の活動は「座標」と深く結びついているという。だとすれば、座標なき世界こそが我々の目指すべき領域ではないのか。

 「リンク先に新たなリンク先が用意されている」という感覚ほど、思考を的確に表現したものはあるまい。


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