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どうする家康 18話 真・三方ヶ原合戦

11か月前

天文11年(1542)12月26日は岡崎城主・松平広忠の嫡男として竹千代(家康)が生まれた日。母は刈谷城主・水野忠政の娘於大だったが跡を継いだ兄信元が今川方を離れ織田方についた。このため2年後に広忠と於大は離縁することに。竹千代は6歳から19歳まで織田と今川の人質として過ごした。

天文18年(1549)11月9日は松平竹千代(家康)が信長の兄・信広との人質交換で一時的に岡崎へ帰った日。元々は今川氏の駿府へ送られるはずが味方の裏切りで織田氏の人質に。今川義元の家臣・太原雪斎が安祥城を攻め信広を生け捕りにして交換が実現した。竹千代は駿府へ送られ10年を過ごす。

天文18年(1549)3月6日は竹千代(家康)の父・松平広忠が24歳で死去した日。死因は近臣の岩松八弥による殺害や病死など諸説ある。正室・於大の方の実家が今川を離れ織田に付いたため離別し竹千代を今川に人質として移送した。生き残るためにはいろんなもの差し出さないといけないのですね。

家康ラップ① ~竹千代誕生~

人質・竹千代(徳川家康)

【~連載~静岡の歴史を学ぼう173】Hodoji Temple 報土寺 

天文11年(1542)12月26日は岡崎城主・松平広忠の嫡男竹千代が生まれた日。母は刈谷城主・水野忠政の娘於大。跡を継いだ兄が今川陣営を離れ織田につき2年後離縁。後に織田と今川の人質でたらい回しのこの子が徳川家康として戦乱の時代を終わらせる。誰がどんな未来を創るかわからない。

家康ラップ② ~どうする竹千代~

桶狭間の戦いの考察9

3年前

視聴記録『麒麟がくる』第九回「信長の失敗」2020.3.15放送

天文4年(1535)12月5日は三河の松平清康(家康の祖父)が尾張守山(森山)にて家臣阿部正豊に暗殺された日。清康は織田信秀と戦うため守山に着陣。正豊の父定吉に謀反の噂が流れ陣中で馬が騒いだのを父が謀殺されたと正豊が勘違いしたといわれる。守山崩れにより松平氏は弱体化することに。

天文18年(1549)11月23日は今川義元の家臣・太原雪斎が三河・上野城を攻略した日。上野城の酒井忠尚は今川氏傘下の松平氏から織田氏に乗り換えていた。この月、雪斎が安祥城攻略し信長の兄・信広を捕らえ人質交換で松平竹千代(家康)を取り戻すなど西三河での今川氏勢力が強まっていった。

天文16年(1547)8月2日は竹千代(家康)6歳が今川氏の人質として駿府へ向け岡崎を出立した日。西郡から船で田原へ行き陸路駿府へ向かう予定だったが田原城の戸田康光が裏切り海路尾張熱田へ送られ織田氏へ引き渡された。ただ父広忠が織田氏に降伏し竹千代が人質になった説も浮上している。

天文6年(1537)6月25日は12歳の松平広忠が今川家支援で駿河から岡崎城へ帰った日。家康の父・広忠の生年や一族に追われた流浪後に岡崎へ帰還した時期など史料によりバラつきがある。松平家は今川家と織田家に挟まれる状況にあり竹千代(家康)を人質に出して今川家に従属する立場をとる。

天文6年(1537)6月25日は松平広忠が今川氏支援で駿河から岡崎城へ帰った日。家康の父もまだ12歳。一族に追われ流浪後のこと。以降三河は家康独立まで今川傘下。大河「麒麟がくる」の、好き勝手いう今川家臣に家康たちが床を叩いて反抗の意思表示する場面は、三河人としてはグッときました。

樵暗恵最(しょうあんえさい)

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