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視聴記録『麒麟がくる』第八回「同盟のゆくえ」2020.3.8放送

尾張の海辺で、漁師たちから慕われている奇妙な出で立ちの織田信長(染谷将太)を目の当たりにした光秀(長谷川博己)。この男に帰蝶(川口春奈)を嫁がせていいものかと葛藤する光秀だが、母・牧(石川さゆり)は美濃国の行く末のことを一番に考えることが大事だと告げる。光秀が自分の気持ちにこたえることがないと分かった帰蝶は、光秀の口から「尾張に行って美濃にない海を見るべきだと、背中を押してほしい」と条件をつける。

<トリセツ>
斎藤・織田・今川の勢力は?
竹千代の父で三河の岡崎城城主・松平広忠が今川義元の傘下に入り、尾張は美濃と三河の両方から国境を脅かされることとなる。
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/8.html

<紀行>
名古屋を象徴する名古屋城。徳川家康が西の押さえとして、江戸時代に築いた城です。戦国時代、この場所には現在の城とは異なる今川氏の城、那古野(なごや)城があったといいます。信長の父・信秀は、この城を今川氏から奪い取ると、幼い嫡男・信長を城主としました。
信長の学び舎(や)があったというかつての天王社(てんのうしゃ)、那古野神社。今川との合戦で焼失した社殿を信秀が建て直したと伝えられています。
神主だったとされる織田家の祖先。神社の紋と同じ木瓜(もっこう)紋を家紋としています。
「尾張のおおうつけ」といわれた信長の天下取りは、名古屋の地から始まったのです。
https://www.nhk.or.jp/kirin/journey/08.html

1.織田家


現在、「織田氏平氏説」は否定されており、
「織田氏は、織田(「おだ」ではなく「おた」)荘の荘司の藤原氏」か、
「織田氏は、剣神社の宮司の忌部氏」か、
と考えられています。

番組最後の<紀行>を聞いて、2点。
①「神主だったとされる織田家の祖先。神社の紋と同じ木瓜(もっこう)紋を家紋としています。」(放送を見ると、織田木瓜は天王社の神紋だと考えがちですが、剣神社の神紋と考えた方がいいでしょうね。)
②「「尾張のおおうつけ」といわれた信長の天下取りは、名古屋の地から始まったのです。」(「信長の天下取り」は、「名古屋の地から始まった」と考えるより、「岐阜の地から始まった」と考える方がよろしいかと。)

 織田氏は、越前国二宮・剣神社(福井県丹生郡越前町織田金栄山)の神主で、スサノオ尊を祀る剣神社の神紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」です。
https://www.tsurugi-jinja.jp/
 天王社はスサノオ尊を祀る津島神社の分社で、当然、神紋は津島神社と同じです。津島神社の神紋も「木瓜紋」です。「西の八坂、東の津島」と並び称される京都祇園の八坂神社の神紋は、「左三巴と木瓜(五瓜に唐花)」です。
http://tsushimajinja.or.jp/
http://www.yasaka-jinja.or.jp/
 よく、「織田氏は津島神社(天王社。本来は萬松寺の塔頭・天王坊)の神紋を家紋にした」と聞きますが、そうでしょうか?
 津島神社の記録は、平安中期までありません。平安末期の記録に「津島牛頭天王社」「大国魂神社」として登場します。牛頭天王を祀る「居森社」を「国玉神社」の横に遷座し、「津島牛頭天王社・大国魂神社」としたようです。(津島神社の前身社には、居森社説、大神神社説、国魂神社説、弥五郎殿社説があります。)

《織田家系図》

藤原信昌┬常松┬教長─淳広【勘解由左衛門家】
    └常竹├□─□─郷広─敏広【伊勢守・兵庫助家】
         ├□─□─久長─敏定┬寛定【近江家】           
         │        └寛村【大和守家】
         └□─□─良信─信定─信秀【弾正忠家】─信長

※尾張国守護所が置かれた清洲城に尾張国守護・斯波氏がいた。
※尾張国八郷は、上四郡と下四郡に分かれていた。
※上四郡は、岩倉城の「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)が支配していた。
※下四郡は、清洲城の「織田大和守家」(清洲織田氏)が支配していた。
※清洲三奉行:「織田大和守家」に仕える3人
・因幡守家
・藤左衛門家
・弾正忠家:織田信秀、信長など

《織田弾正忠家系図》

「清洲三奉行」
 織田良信【勝幡】┬信定┬信秀【古渡】─────┬信広【安祥】
「織田弾正忠家祖」└秀敏├信康【犬山】┬信清   ├信長【那古野】
 (勝幡織田氏祖)     │                └広良 ├信勝【末盛】─信澄
             ├信光【守山】─┬信成 ├秀俊(信時?)
             ├信実【松葉?】└信昌├秀孝(8男とも)
             └信次【深田】     ├信包【上野(伊勢)】
                      ├信時─女(池田信輝養女)
                      ├信興【小木江(伊勢)】
                      ├信照(10男とも)
                      ├秀成
                      ├某(中根忠貞養子)
                      ├長益
                      ├長利─女(織田信雄側室)
                      ├女:お市(浅井長政室)
                      ├女:(稲葉良通室)
                      ├女:お犬(細川昭元室)
                      ├女:(飯尾尚清室)
                      ├女:(牧長清室)
                      ├女:(大山夷斉室)
                      ├女:(織田信直室)
                      ├女:(織田信成室)
                      ├女:(津田元嘉室)
                      ├女:(苗木勘太郎室)
                      ├女:(斉藤秀竜室)
                      └女:(丹羽氏勝室)

※嫡男(嫡子):家督を継ぐ息子。戦国時代は、宗主が息子たちの中から嫡男(次の宗主)を選んだ。この「嫡子相続制」は、家督相続問題に発展することが多く、江戸時代は「長子相続制」(長男がどんなに暗愚であっても継がせよ。長男が暗愚な場合は、家を家老衆が盛り立てよ)とした。
 織田弾正忠信秀の場合、長男は信広である。信広は側室の子で、信長より年がかなり上だったという。信秀は二男・信長を嫡男にして家督を継がせた。その結果、信勝(古い本では「信行」)を推す家臣が信勝を持ち上げ、兄・信長と兄弟であるのに戦った(「稲生の戦い」)。
 斎藤秀龍の場合、長男・義龍(側室・深芳野(一色義清の娘)の子)に家督を譲り、自身は道三と名乗って鷺山城で隠居した。ところが義龍は、廃嫡(「素行不良」「病弱」などを理由に弟など、別の人を嫡男にすること)されると思い込み、正室・小見の方(明智光継の娘)の子たち(弟たち)を暗殺し、父・道三までも討つと(「長良川の戦い」)、「一色義龍」と名乗った。
 松平家の場合、

①親氏─②泰親─③信光─④親忠─⑤長親(長忠)─⑥信忠─⑦清孝(清康)─⑧広忠─⑨元信(家康)

(注1)⑤長親:家系図上の名。同時代史料には「長親」とは無く、学術論文では「長忠」とする。
(注2)清孝:安祥松平家の松平清孝は、岡崎松平家に移り「清康」(通称「岡崎殿」)に改名したが、後に安祥松平家に戻った。
(注2)元信:元信→元康→家康と名を変えた。「元」は今川義元、「康」は松平清康、「家」は源義家から取った。「信」は不明(一説に武田晴信)であるが、織田家に通じる名だとして、すぐに元康に改名した。

と一本線で書くと、順調に長男が相続していったように見えるが、これは、織田家の家系図を

平清盛…常昌─常勝─教広─常任─勝久─久長─敏定─信定─信秀─信長

と書くようなものであり、実際は、②泰親は弟、③信光と④親忠は三男、⑤長親(長忠)と⑨家康は二男である。(ただ、乗元をはじめ、大給松平一門は、親忠の葬式に1人も参列していない。ということは、後に松平乗元は、系図に意図的に加えられたと考えられる。)

┌①親氏┬広親【酒井】…酒井忠次(「徳川四天王」筆頭)
└②泰親├信広【松平郷】
     └③信光┬親長【岩津】
        ├守家【竹谷】
        └④親忠【安祥】┬乗元【大給】
               └⑤長親─⑥信忠─⑦清康─⑧広忠┬忠政
                              └⑨家康

※織田信長も明智光秀も、子供の数は20人くらい。蓮如は60~70人の子がいたけど、成人できたのは27人(13男14女)だとか。驚くのは松平③信光の48人! 景行天皇の80人には負けるけどね。ギネス記録は、モロッコ王国の皇帝・ムーレイ・イスマーイル(1672-1727)の888人(542男346女)だけどね。

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