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視聴記録『麒麟がくる』第九回「信長の失敗」2020.3.15放送

輿(こし)入れしたものの祝言をすっぽかされた帰蝶(川口春奈)は、ようやく翌朝帰ってきた信長(染谷将太)と顔を合わせる。奇妙な出で立ちだが、領民のことを思いやる姿、そして素直に前日の不在をわびる信長に興味をもつ。婚儀に上機嫌な信秀(高橋克典)と土田御前(檀れい)だが、信長が持参した祝いの品を見て、激しく叱責する。父にも母にも愛されない孤独な信長の姿を見た帰蝶は、鉄砲の手ほどきを受けながら自分も父がときどき大嫌いになる以外は好きだと言い、信長に寄り添う。
一方、美濃の光秀(長谷川博己)はのちの正妻となる熙子(木村文乃)と懐かしい再会を果たしていた。

<トリセツ>

竹千代の人質としての価値は?
三河の最有力大名であった竹千代の祖父・松平清康が急死したため、子の広忠が跡を継いで岡崎城主となりました。 広忠の嫡男である「竹千代」=「三河」を意味し、竹千代を人質として手に入れることは、戦わずして三河を手に入れることを意味します。

今川義元は、なぜ強大な勢力を誇ったのか?
今川家は下剋上の世の中をのし上がってきた織田家や斎藤家とは違い、駿河・遠江の守護に代々任命されていた名門の家柄。さらには、卓越した経済力があり、朝廷にも大金を献金することで大きな権力をもつようになりました。
収入源で一番大きかったのは金山(きんざん)収入。加えて、領国(駿河・遠江=現在の静岡県)は太平洋に面していたので織田家と同じように商品流通経済に目を向け、江尻(清水)や沼津など多くの港をおさえ、海上運送による大量物流を掌握。また陸路では東海道を行き交う商人たちから徴収した関税なども収入源になっていました。
ちなみに、「楽市楽座」という名称を使ったのは信長が最初だといわれていますが、今川家はすでにこの自由市場のシステムを取り入れていました。

大金持ちの証し “赤い金魚”
織田家で人質として暮らす竹千代は、自身のとらわれの境遇と重ね、赤い金魚をのぞいていました。
金魚は、室町時代の中期〜末期に中国から観賞魚として伝来、当時は赤色の金魚しかいませんでした。
渡来物で大変に高価であったためその姿を楽しむことができたのは、大名や商人の中でも莫大な財力を誇る一部の人たちだけでした。

 聞くところによると、川口帰蝶さんのギャラは1話100万円だとか。(本当はもっと安いランクの役者さんだけど、緊急招集のため、割増料金だとか。)脚本も1話100万円だとか。
 2回の仕事で200万円か・・・私も記事を書くごとに1万円X100人のサポートがあれば、最初の記事の100万円で車を買って、次の記事の100万円をガソリン代、食費、宿泊費にして日本一周正続100名城の旅とか、一宮順拝とかできるのになぁ。3本目の記事でも100万円サポートしていただけたら、本屋さんの明智本コーナーへ行って、「このコーナーの本を全て下さい」って言うよ(一生に1度でいいから、お店で「ここからここまで全部」って言ってみたい)。サポートお願いします。あちこち取材に行って、興味深い話をたくさん仕入れたり、たくさん写真を撮ったりして、載せたいと思います。
 たったで2回で・・・2回と言えば、松平広忠は2回出て終わりかな? 回想シーンでまた登場するのかな?

1.織田氏


        ┌上四郡守護代・織田伊勢守(岩倉)
尾張国守護・斯波┤                ┌奉行・織田因幡守
        └下四郡守護代・織田大和守(清洲)┼奉行・織田藤左衛門
                           └奉行・織田弾正忠

 尾張国には8郡あり、上下4郡に分かれていた。その下四郡(海東、海西、愛知、知多)を治める下四郡守護代・織田大和守家(清洲城)に仕える「清洲三奉行」の1人である織田弾正忠家の宗主が織田弾正忠信秀(古渡城→末森城)であり、嫡男(次期宗主)が織田弾正忠信長(那古野城)である。

 織田弾正忠家は、津島湊と熱田湊を抑え、交易収入で財政豊かではあるが、身分は低い。学者は、「織田信長は、守護代を倒し、守護を退けて尾張国を平定するのに8年かかった」(織田信長は1代で尾張国を平定した)と言うが、ワタシ的には、尾張平定は「父・織田信秀が基礎固めをしてくれたから成し得た」とし、「尾張平定は、織田信秀・信長親子2代で成し得た」と考えたい。ちなみに、津島湊を得たのは、織田信秀ではなく、織田信秀の父・織田信定である。

 織田信長は、「敵は、美濃国の斎藤、清洲の織田大和守、遠江&駿河の今川の3者。両手では足りない」とし、「まずは美濃国の斎藤と同盟を組み、清洲の織田大和守家を滅ぼして尾張国を平定した上で、強敵・今川と戦う。(今川に加担する松平氏の嫡男を人質にとっているので、今川はすぐには攻めて来ない。まずは今川と戦う準備=尾張国平定が緊急課題)」という構想であった。

・このドラマでは、「帰蝶と織田信長の結婚は、婚約して数ヶ月後」(織田信秀は体調不良であったので、美濃国との同盟を急いだ)としているが、資料によっては「4年後」とある。

・織田信秀は、上記の構想を織田信長の守役・平手政秀には語ったが、織田信長には語っていなかったので、織田信長は「美濃国の斎藤と同盟を組んだ」ことを「今川と戦う準備ができた」と捉え、「先手必勝!」とばかりに、松平広忠を暗殺した。これが今回のタイトル、「信長の失敗」である。

※『信長公記』「蛇替えの事」(実は松平広忠を討ちに行ってた?)
https://note.com/senmi/n/ncc32044f7c1d

2.水野氏

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 尾張国の織田氏と遠江&駿河の今川氏に挟まれた三河国の松平広忠は、支援者・吉良持広(松平広忠の「広」は、吉良持広に頂いた「広」)が亡くなると、大給松平氏の於久の方と離婚し(一説に密命を与えて桑谷村に隠匿し、あるいは、正室から側室に格下げし)、同じく今川方の水野忠政(緒川城&刈谷城主)の娘・於大の方と結婚した。ところが、水野忠政が亡くなると、家督を継いだ嫡男(二男)・水野信元が織田方に寝返ったので、松平広忠は、於大の方と離婚し、今川方の戸田康光(田原城主)の娘・真喜の方(田原御前)と結婚した。

 離婚させられた於大の方は、3年間(天文13~16年)、椎ノ木屋敷に幽閉された後、菅原道真の後裔という久松俊勝と再婚させられた。於大の方が幽閉された理由は不明であるが、一説に「ある人物の子を身ごもっていたから」だという。いずせにせよ、水野信元は小河城、於大の方は椎ノ木屋敷にいて、このドラマのように、2人揃って刈谷城にいることはない。

水野氏
・宗家:小河(緒川)水野氏・小河城:水野信元(二男)
・刈谷(刈屋)水野氏①・刈谷城(新城):水野信近(三男)
・刈谷(刈屋)水野氏②・刈谷城(古城):水野近守(長男)
・大高水野氏
・常滑水野氏 など

※「菊丸の正体、ついに明かされました! その正体は、竹千代の実母・於大(松本若菜)と、その実兄・水野信元(横田栄司)に仕える忍びです。水野兄妹の命を受け、情勢に翻弄された悲運の少年・松平竹千代に害が及ばぬよう、影で竹千代を守り続けます。その眼の奥には、自らの生まれ故郷・三河へのあくなき愛があります。駿河と尾張の狭間で翻弄される悲しき三河の民を、岡村さんが全身全霊で演じてくれています。家康が本役・風間俊介さんになってからも、陰になり日向になり、家康を全力で守っていきます。正体が明かされた菊丸を今後ともよろしくお願いいたします!」(制作統括・落合将チーフプロデューサー談)
 「自らの生まれ故郷・三河」ってことは、伊賀出身の初代ではなく、2代目服部半蔵正成(1542-1597)なのか?

3.松平氏

 
 松平広忠の生涯(24年間)は、次の3期に分けられる。

Ⅰ期(少年期):誕生~守山崩れ
Ⅱ期(逃亡期):諸国(三河、伊勢、遠江、駿府)放浪
Ⅲ期(戦国期):織田信秀と安祥城の争奪戦

10歳の時に父・松平清康が家臣に斬られて落命する(「守山崩れ」)と、岡崎城には桜井松平家の松平信定(織田方)が入り、千松丸(「仙千代」とも。後の松平広忠)は諸国放浪する。吉良持広の支援で岡崎城に戻ると元服し、吉良持広の「広」をいただいて「松平広忠」と名乗るが、吉良持広が亡くなってしまった。後見人に指名された阿部定吉は、熱烈な今川派であり、織田信秀と安祥城の争奪戦が開始されると、松平広忠は死亡。死因については、
①病死説
②暗殺説A(岡崎城で。黒幕:佐久間全孝)
③暗殺説B(渡村で。黒幕:織田信秀)
があり、概ね、
①古い資料は「病死」で、新しい資料は「暗殺」
①江戸幕府の資料は「病死」で、地元三河の資料は「暗殺」
であり、この事実の解釈としては、
A説:古い資料ほど信用できるので「病死」で、「暗殺」は創作
B説:清康、広忠と2代続けて「家臣による暗殺」では世間体が悪いので、「病死」と発表したが、後に「暗殺」であることが判明
の2通りあります。

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 徳川家康は、父・松平広忠の菩提寺・広忠寺を建てました。
 住職の頴(正確にはきへんに頴)新(えいしん)は、徳川家康の双子の弟のようです。当時、双子が生まれると、家督争いになることを避けるために、片方の子は殺されていましたが、於久の方が、自分の子として密かに育てたそうです。
 写真の広忠寺の墓は、中央が松平広忠、右が於久の方、左が松平忠政(徳川家康の異母兄)の墓になります。
 1983年NHK大河ドラマ『徳川家康』のキャスト(敬称略)は、
・徳川家康(竹千代→松平元信→松平元康→徳川家康):滝田栄
・松平広忠(竹千代の父):近藤正臣
・於大の方 (正室): 大竹しのぶ
・華陽院(於大の方の実母、徳川家康の祖母):八千草薫
・勘六(松平忠政、於久の方の実子): 宮川陽介
・於久の方(側室):高橋恵子
・真喜の方(継室、「田原御前」とも):大城えりか
・水野忠政(於大の方の実父):北村和夫
・水野信元(於大の方の実兄):村井国夫
・水野信近: 田代隆秀
・久松弥九郎(俊勝、於大の方の再婚相手):橋本功
でした。

4.妻木氏


 妻木郷は、土岐明智氏の領地であり、その土岐明智氏の分家・土岐妻木氏の本貫地ですが、土岐妻木氏は中絶しました。ところが突然、妻木伯王頼貞が出現して、妻木郷の領主になったらしいです。そして、「本能寺の変」で再び絶えると、貞徳が妻木郷に入って妻木貞徳と名乗り、妻木氏を再興したらしいです。明智氏もそうですが、この妻木氏にも多くの系図があって、はっきりしません。

※『本朝武家諸姓分脈系図』「妻木」
・明智光秀は、妻木頼季(広忠?)の妹と明智下野守光綱の子だとする。通字が「頼」で本物っぽい反面、できすぎていて嘘っぽくもある。

妻木伯王頼貞─頼時─頼成┬頼季─①貞徳─②頼忠─③頼利─④頼次(断絶)
             └女子:明智下野守妻。日向守光秀之母也

※「妻木系図」(妻木八幡神社所蔵)
・妻木氏は、土岐頼貞の弟の舟木頼重(初代妻木城主・土岐頼重)の後裔だという。

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左:長寿院殿卜庵亀公居士(妻木貞徳) 制作:元和6年8月9日
右:清閑院殿一友宗心居士(妻木広忠) 制作:明治

土岐明智①頼貞─②頼基┬③頼重─⑤頼篤…広忠…貞徳…
             └④頼高

 土岐明智頼重が創建した土岐妻木氏の菩提寺のご位牌も、頼貞、(頼基欠)、頼重、頼高、頼重ときて、中断したのか広忠(宗心)に飛び、さらに貞徳に飛ぶ。(ただし、広忠のご位牌は、明治時代の制作で、当時のものではない。)妻木八幡宮の棟札に出てくる人達の位牌がないのが不思議です。

※参考系図
・熈子(於牧)は、妻木範熈と水野信元の姪の子だという。また、妻木範熈と妻木広忠は、同一人物の可能性があるという。(「弘」「熈」は「広」か?)

妻木弘定─広俊─広美─頼安┬広忠(宗心)─貞徳─頼忠(入道伝入)
            └範熈┬範賢
                 ├範武
                 ├範之
                 ├熈子(於牧)
                 └芳子

※参考:「妻木八幡宮棟札」
・文安元年9月1日 大檀那源頼俊
・永正2年冬 妻木彦九郎弘定
・天文10年秋 妻木広美 同頼安
・永禄2年夏 妻木広忠
・慶長13年 妻木伝入頼忠

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松平広忠の首をとる時期は今じゃないけど、妻木へ行くなら、

「いつ行く? 今でしょ!」

 新型コロナウィルスの影響で空いてるから今なのではなく、位牌堂の68枚の天井絵を見ていて、「確か林修先生の祖父・林雲鳳画伯(岐阜県多治見市笠原町出身)の絵があったはず」と思ったら、この言葉が思い浮かんだのです。

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