徳川家康さま☘️をたどる#70☘️秀頼さま・家康さま二条城での会見
初筆 2024年 1月 26日 / 加筆修正 未
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1 コンセプト
#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
東南アジア諸国との貿易で家康さま目的は香料の木楠香の輸入であり、大量輸入が叶わないことがわかると東南アジア諸国との貿易は下火となった。
家康さまがヨーロッパとの貿易で積極的に進めようとした取引先は、#スペイン 領 #ノビスパン であった。しかしスペインはキリスト教宣教師の厚遇を主張することため、家康さまはノビスパン貿易には消極的に。
家康さまには、イギリス人・オランダ人の直臣がいたことや、宗教の押し付けもなく、純粋に貿易ができた。家康さま大御所時代の貿易取引国はイギリス・オランダが主となった。
⬇️前回はこちら❗️
3 家康さま大御所時代に諸大名の築城にしょっちゅう遺憾の念を表す🤣💦💦
1605年・慶長10年〜1610年・慶長15年あたり、
家康さまは新規築城や城郭修繕をした外様大名に
しばしば遺憾の念を出しています。
1609年・慶長14年には
「西国の大名衆、所々において
城普請、丈夫に構えるの旨(むね)」
という報告に対して
「然るべからず❗️」と意思表明しています。
このころには
外様大名は老朽化した城郭を修繕するにも
気を遣うようになっていました。
加賀の #前田利長 さまは隠居後に居城としていた
富山城が焼失し居城普請の届出をしてからの
再築城でした。このときに家康さまは
「以後の居城普請については何方にても利長次第」
と表明し、火事見舞いの品々を
前田利長さまに送っています。
また、広島安芸の #福島正則 さまの
城普請の届けを認めました。
福島正則さまは以前、届出なしで
城郭の崩れた箇所を普請したところ
幕府との関係が悪化したため
普請箇所を破却した、という経緯があっての
今回の城普請届出でした💦💦
1609年・慶長14年ごろには、
かつての豊臣家恩顧の猛将、正則さまさえ
家康さまに気を遣う時代となっていました。
4 江戸町普請とその財源
家康さまが大御所時代、江戸の町は少しずつ
整備されてはいましたが、まだまだ今の東京の
様相にはなっていなかったと聞き及びます。
家康さまが江戸入府した1590年・天正18年から
1610年・慶長15年ごろまでの江戸町の
大きな開発事業は以下でした。
日比谷入江の埋め立てと干拓
飲料水の確保
塩搬入の経路開発
順を追って話します。
まず、日比谷入江の埋め立てです。
家康さまが江戸にご入府なさったころ、
今の日比谷は海でした。銀座あたりが半島状態で
南側から入り込める入江だったのです。
今の日比谷公園から汐留あたりは
このときに埋め立てられて陸になりました。
大勢の人足、土木業従事者が、江戸には仕事がある
という情報をキャッチし、江戸の人口は
どんどん膨れ上がりました。
人が増えると必要になるのはまずは水❗️
井戸を掘ればいいじゃないか❓
そんな声も聞こえますが、この頃の江戸町は、
神田・日本橋から銀座・日比谷を通り
せいぜい芝くらいの海岸線沿いです。
この辺りに井戸を掘ると海水が混じっていて
まったく飲めるものではなかったそうです。
どうしたのか❓
幕府は上水を引きました。
最初は小石川、今の文京区・西側あたりから
上水道を引き、それでも上水供給量は足りず、
さらに上流の井の頭公園に水源を求めました💦
#神田上水 の始まりです。
そして人口急増て次に必要なものとなるのは塩❗️
塩分は人間にとって1番重要なミネラルです。
江戸周辺の塩の供給地は今の千葉県・行徳あたりでした。
家康さま江戸入府以前、江戸はそんなに人口が
多くはなくて行徳からの塩輸送は、そんなに
困ってはいませんでしたが、これも人口急増に伴い
輸送量不足に陥りました。
行徳も江戸前も沿岸部、
迅速に大量輸送するためには大きな船での海上輸送が
1番よいのですが、このころの江戸は大きな船での
海上輸送にモンダイがありました。
今の東京と違い、このころの江戸は
海岸線が今より内側にあり、
ずっと浅瀬が続くような浜になっていて、
大きな船は陸に近づけなかったのです。
江戸幕府は塩の大量輸送水路を作りました。
それが今の小名木川で、海岸線と平行に
江戸と行徳を結ぶ運河です。
この運河の完成で江戸前に大量の塩が
供給されることになったのです。
この3つの長期に渡る普請つまり土木工事には
天下普請の部分もあり外様諸大名が経費込みで
請け負った部分も少なからずありましたが、
それでも諸経費は不足しています。
徳川家の所領が関東移封で260万石になったとは言え、
年貢徴税だけで賄える経費ではありません。
予算はどうしたのか❓❓
関ヶ原の戦以後、金山銀山をことごとく
徳川家直轄地としていた家康さま😉
そう、それらから算出される金銀を使って
家康さまは江戸の町の普請・インフラ整備を
していきました❗️❗️
とくに佐渡の金山は1601年・慶長6年に
徳川家直轄領となりましたが、同年、
北山と呼ばれる大道金脈が発見されたのです。
この発見が江戸町インフラ整備を憂なく
続行していけた背景になり、さらに言えば、
現在の東京があるのは佐渡金山北山のおかげ
と言っても過言ではありません😉🤚
5 家康さま上洛・後水尾天皇即位の礼のため
1611年・慶長16年3月、家康さまは
久しぶりにご上洛なさいました。
表の目的は、後陽成天皇の譲位・後水尾天皇の即位の
礼のためでした。仕切ったとも言えます。
家康さまは上洛の少し前に
銀や蝋燭など後陽成天皇への進物とともに
譲位を3月に執行すること
その折には家康さまが自ら上洛して尽力・世話すること
が伝えられました。
そして上位に伴う
禁裏御殿の新造・禁裏築地普請を
諸国の大名にお命じになりました。
召集されたのは、諸大名142名、
また駿府・江戸・大坂からも奉行クラスの
武家を召集しました。
また天皇の譲位と即位の例のための上洛は
家康さまだけではないため、家康さまは
京都に向かう道中の様子についても
細かい規則を以下のように定めました。
上洛の供の脇道の禁止
馬の取り扱いの詳細の定め
放談・高笑い・大酒・遊興の禁止
宿銭の取り決めを特別ルールとする
ご上洛なさった家康さまは
此度の上洛は将軍 #徳川秀忠 さまの名代として
ご譲位・ご即位のの沙汰を執り行うことを
#武家伝奏 #広橋兼勝 さま・ #勧修寺光豊 さまに
伝えるとともに、以下をお申し入れになり、
いずれも届入れられました🥰
徳川家の元祖(ということにした)新田義重さまに鎮守府将軍の官職を追贈
家康さまのお父さま #松平広忠 さまに権大納言の官職の追贈
ご譲位・ご即位の日取り決めや
即位の礼に自らが伺う、つまり、仕切ることの通達
から始まり、全国への上洛途上を厳かに行う号令、
そして先祖への官位追贈、すべて
家康さまは名実ともに天下人であることを
世間にこれでもかと言うくらい
明示するための行為でした。
このころには家康さまは、少しのスキもなく
家康さまが天下人であることを内外に示しました。
そして、
こののち数年かけてかなりの名誉と実権を
秀忠さまに譲っていくつもりの家康さまです。
自分が所有した権威を世襲とし、
権威は将軍にある、という形で、
幕府に権威を持たせようとしていた家康さまです😉🤚
6 家康さま慶長16年上洛の裏目的
家康さま、1611年・慶長16年上洛の
裏目的は以下の2つがありました。
#豊臣秀頼 さまとの会見
即位の礼のため上洛した大大名に対して三ヶ条の条々を誓約させる、つまり書面で征夷大将軍に臣従させる
秀頼さま・家康さまの会見は後水尾天皇即位の翌日
1611年・慶長16年3月28日のことでした。
この会見の実現に向かって奔走したのは主に
などの諸将でした。
もはやどの豊臣恩顧の大名も
家康さまに臣従・あるいは実力は認めている状態、
上記の諸将は、かつてお世話になった秀吉さまの
ご子息・秀頼さまは大名の1人として家康さまに臣従して
羽柴家を存続させるのがよい、と、おもい、
秀頼さま・家康さまが仲良くしてくれればよい、
とお考えだったに違いありません。
会見において家康さまは
秀頼さまが到着時に庭に出て出迎えたという
最上級の礼を払いました。
御成の間という会見場に入るときも、
家康さまは秀頼さまに先に入るようにと勧めましたが、
秀頼さまはご斟酌なさり、家康さまが先に
御成の間に入ることとなりました。
これを1部の歴史家は、秀頼さまは、
かつての主君より先に部屋に入る無礼者・家康、と
世間に言われるように仕向けた。
家康さまの評判を落とすための
秀頼さまの作戦であった、と語ったりしますが、
この面会は豊臣家と徳川家の公式の面会です。
お互いに礼を尽くすのは当たり前、
そしてその礼とは、官位官職を意味します。
秀頼さまはこのとき正二位、家康さまは従一位、
もし秀頼さまが、部屋に先に入るのを
家康さまに譲らなかったら、
武家公家全員から、秀頼さまは礼儀知らず、の
そしりを受けます。
秀頼さまは礼儀正しく古事に基づき、
品位ある振る舞いをしたに過ぎません🥰
しかし、品位と教養、そして、
高貴とも若武者とも言える見た目
(このころは秀頼さま体軀もご立派だった
という伝え書きが多く残ります)、
そんな秀頼さまを見て、家康さまはかえって
危機感を募らせたと言われることが多いです。
秀頼さまは多くの人望を集めるだけの
生まれ持った才能を萌芽していました。
秀頼さまが大人の分別を持つ前に、
生まれながらの秀頼さまの才能を
利用しようとする輩が現れたら
世間は乱れる可能性がある、
家康さまはそんな思いを抱いたと思ってよいと思います。
モノは言いよう、秀頼さまによき指南役と軍師、
家臣が揃えば、徳川将軍家を凌駕する、と
家康さまはお感じになったのです❗️❗️🔥🔥
秀頼さまは、かつて家を継ぐ前の #織田信長 さまの
ように程よい「うつけもの」をしておくのが
よかったのかも知れませんね、
いや、それができるくらい成長していたら
秀頼さまはとうに、大坂城を出て、
1大名になっていたかもです💦💦
7 次回
家康さま慶長16年ご上洛の
裏目的のもう1つ、
西国大名の三ヶ条の条々への誓約とは
何だったのか❓
これによって徳川政権と諸大名の間柄は
どう変化していったのかーー❓❓
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