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【東海道】岡崎二十七曲りを歩く⑨~寄り道~松平広忠公御廟所がある松應寺


はじめに

「今月(1月)中に東海道・岡崎二十七曲りの記事を完走させます!(キリッ」と書き放ち、結局、完走していない。
考えがまとまればネコチャーンの部屋『否定/誹謗中傷と批判』という記事を書きたいと思う。というのも、私は体調不良ではなく否定や理不尽が重なり、少し心が折れている。

昨年末に「こんなもの(ネコチャーンのアカウント/記事)、誰も見ない」と近しい親族から言い放たれたが、悪気もなく放つ言葉で簡単に人が傷つき気力を失う。そういった危険性を今だからこそ書きたいのだ。
私は継続して何かを成している。それだけで崇高なことだと思う。

さておき、今回は家康公の父君・広忠公を菩提するために家康公が創建した『松應寺』に東海道から少し寄り道する

今回の寄り道

水色:史跡など 緑色:推奨旅路
画像出典元:Googleマップ

目印が東海道・岡崎二十七曲りの田中吉政公の像になる。

松應寺

松應寺は早世した父君・広忠公を菩提するために、永禄三(1560)年に家康公により創建された。
詳細は下記リンクを参照いただいた方が良いかと思う。

松應寺さんはインスタもやっていらっしゃるようだ。
https://www.instagram.com/shououji/

今回は写真をベースにしていく。

本堂に向かう道。

昔は花街。今はカフェや雑貨店などが立ち並ぶ、昭和レトロ漂う街になっている。
商店だけではなく、一般民家もあるとのこと。
そのため、写真撮影の際には十分にご配慮を。

本堂に向かう道の左手に在った観音堂(と思われる)。

ボンカレーの看板が良い味を醸し出している

さて、本堂へ。

本堂

本堂の瓦。

三つ葉葵の御紋

仏閣の沿革などが書かれた掲示板(?)

岡崎観光文化百選・岡崎市指定文化財・仏閣の沿革がそれぞれある

仏閣の沿革。

本堂に向かって左に鐘撞堂。

梵鐘の説明も鐘撞堂の眼下にあり。

鐘撞堂に向かって左手に広忠公の廟がある。

神社仏閣は神仏がいらっしゃる聖域
志をボックスにいれ、拝見させていただく
※この志の理由は後述

松平広忠公の廟。

正面

説明文

私たちの先祖・重辰は広忠公の父君・清康公には仕えた記録はあるが、恐らく、広忠公には仕えなかった……と思われる。
少し複雑な心中ではあるが、戦国時代を平和に導いてくれた心得を家康公に紡いでくれたことに感謝して合掌。

様々な角度からの写真。

入っても良いのか少々悩んだ

さて本堂に戻り、向かって左手を見る。
すると広忠公の廟の土塀の説明がある。

私の覚えがあるのは工事以前。(令和元年以前かーー)
土壁のような土塀だった記憶がある。

廟の土塀にこのような工程の工事が施工されたことが説明されている。
貴重な歴史を遺すための寄付を募っていることが前述の「志」の意味だ。


このような工程を遺してくださることも有難い。

この日は水曜日(だったはず)。
お店は定休日のところが多かったため、街歩きも兼ねた参拝であれば週末がベストかと思われる。

まとめ

松應寺を含む、周辺地区の地域PRなどは随分前から行われていた。
仏閣と近隣。
うまく共存できている事例だと思う。
彼らの葛藤、話し合い、妥協等。どのような取り組みをし、多くの方が満足する形に落ちついたのか。ひとつの成功事例として周辺地域は学ぶことがたくさんあるのではないか。

私は多く岡崎のことを批判しているが、仕事で他地方・海外を数多く見て、その地域・国が大切にする思いも同時に実際に学んできた。
私は他の地域・国の文化風習を尊重しつつ、自分たちの(主に仕事上の)考えも取り入れてもらえる交渉の仕方も学んできたはずだ。

そのため、「岡崎に大切にしたい思い」「進化し続ける岡崎の外」の両面が見えるどこかで自分たちが持っている「家康公を輩出した土地というプライド」を捨て新しいことを取り入れていくことをしなければいけないのではないかーー強くそう思う。
ただ、捨てるというのは「他人の言葉に耳を貸さない意固地なプライド」であって、「他人に大切な信条を侵されないプライド」ではない。後者は捨てては駄目だろう。


多くの方が知っている歴史が残る土地にも関わらず、生かしきれない現状が口惜しい。


最終改定: 令和 年 月 日( 回目)
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします

【注意事項】
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引用・転載の際は必ずお声がけください

【参考】
西三河ぐるっとナビ
https://www.nishimikawanavi.jp/spots/detail/934/



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