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無視できない他人の感情/「怒り」のコントロールの難しさ

私は、暴力や大声で怒鳴られたりなどの自分に向けられた行動でなくとも、目の前でモノに当たられたり、大きな音を出されたりすることが苦手です。

つまり、その「態度」で怒りを表されることが耐えられません。

「自分に向けられたものでないなら、『うるさいなあ』くらいに思って無視すればいいじゃん」

という意見もあると思います。

ただ、私にはどうしてもそれができないんです。

そこに「怒り」(負の感情)があるのに、それを無視して、何の対処もしない、自分とは無関係だと割り切るということが、無理なんです。

(平気な人の方が少ないかもしれないけど・・・?)


他人の機嫌を伺う暮らし

実家に住んでいたころ、継父は日常的にそうした言動・行動を繰り返していました。そして、それによって私や弟、母、あるいは自分の会社の部下を言いなりにして、自分の機嫌を取るように動かさせていました。

何かをしろ、という指示があってもなくても、「怒り」を感じ取ったら、自分が何をすべきか瞬時に判断して動く必要がありました。

たとえば、継父は私や弟が、自分の目の前で下の妹弟と遊んでいると必ず不機嫌になった(恐らく自分よりも私たちになつくのが許せなかった)ので、継父が帰宅した物音(ドアの開閉や床のきしみなどのかすかな音)を感知したら、パッと妹たちから離れて、大急ぎで階段を駆け上って自室へ逃げる必要がありました。

それが当たり前だったので、妹弟も、まだ小学校に入るか入らないかの幼児ながら、継父が帰宅したら、それまで私の部屋で遊んでいたとしても、ハッとした顔をして空気を読み、慌ててリビングへ降りていくのでした。

こういう暮らしをしていたからなのか、民謡や吹奏楽をやっていたことで耳が鍛えられたからなのか、私は「音」にものすごく敏感です。

自分のこうした部分について、「私ってHSP(繊細さん)なのかな?」と思っていた時期もありましたが、私はそうした気質を生まれもって持っていたというよりも、後天的に育った環境でそうした気質を身につけた、と考えるほうが正しいような気がしています。

誰かが自分のそばでイライラしていて、さらにわかりやすくそれを態度で表しているとき、それを自分のことだと結びつけて考えずにはいられません。

そして、自分がそれについてどうすべきなのか考えて、不安や焦り、緊張で心が落ち着かなくなり、目の前のことに集中できなくなったりします。


キャパオーバーした会社員時代

これまで、会社員として働いていた頃にも、そういうことがどの会社でもよくありました。

そのため、イライラしている人や、仕事が終わらなくてパニックになったり、ため息をついたり、大変そうに見える人には、自分から率先して声をかけ、手伝えることがないか探しました。

自分の担当業務ではなくても、やり方を教わって引き受けたりするうちに、気づいたらどんどん仕事の範囲が広がっていきました。

そして、一度「できる」ようになった仕事は、その後も「やって当然」という雰囲気になり(私が勝手にそう感じていただけかもしれませんが)、キャパオーバーになっていました。

また、そうまでして「周りのため」に動いたとしても、けっしてその人達が「怒り」を態度に出さなくなることはなく、むしろそれが常態化していくばかりでした。

私が働いた四社のうち、二社はそれが理由で退職しました。

他人の負の感情を、自分とは無関係だと切り離して、自分のことだけに集中、ということが性格上(?)できないんです。求められているかどうかは別として、やらなくていいことをやって、勝手に疲れてしまうんです。


「疲れ」を表に出すのも苦手

私自身は、自分が「疲れ」を人前で態度に出す、ということも苦手です。

自分が他人のそうした態度を見たときに、「疲れてる…もしかして私のせいかな」「何かしてあげた方がいいのかな」「怒ってるのかな」と不安になってしまうからです。

だから、人と一緒にいるときにため息をついたり、「疲れた~」と発言することは意識して、やらないようにしています。むしろ、疲れているときこそ、疲れていない風を装ったりします。

人によっては、そうした私の態度のほうこそ「不自然」「逆にこっちが気を遣う」と感じられるかもしれません。ただ、私は自分がされてしんどいと感じることを、相手にしたくないというだけなんです。

自分がそう気を付けているからこそ、それを躊躇なくできる人を見ると驚いたりもします。

たとえば、年末実家に行った際、妹が継父(妹にとっては実の父親)の前で、不機嫌そうな態度を取ったり、適当に返事をしたりしていたとき、

「そんな態度取って大丈夫なのかな・・・怒らせるんじゃ・・・」

と、内心ヒヤヒヤしていました。(もちろん、何も起こりませんでしたが…)


ただの愚痴と余計なお世話

実は今日、私のこういう部分が原因?で、夫と少し言い合いになりました。

基本的に、夫は温厚で優しくて、私の意見を否定することの方が圧倒的に少ないです。家に外でのストレスを持ちこむこともほとんどありません。

夫の言い合いになったきっかけは、夫の仕事の愚痴を聞いた私が、求められていないアドバイスをしたことでした。

日頃話を聞くかぎり、夫の職場環境は決して良いとは言えず、小さな営業所の少ない従業員で、コミュニケーション不足のなかギスギスしながら、仕事を押し付け合うような環境のようです。

そして、実は今日水道管の点検のために、夫は仕事を昼で早退する予定があったのですが、職場の上司から無茶ぶり(雪が降って道が混雑する中で、明らかに退社時間に間に合わないような場所への配達を頼まれた)をされたそうなんです。

昼食を一緒に食べようと約束していたこともあり、予定した時間に帰宅できない旨の連絡があり、そのときにも明らかにイライラしているのが文面から伝わってきました。

帰宅してからそのいきさつを聞き、「そんなことを我慢するべきじゃない。それが当たり前になってはいけない」と思い、意見を言ってしてしまったんです。

「それ、所長に相談した方が良いんじゃない?あくまで事実ベースで、〇〇さんから~~を頼まれたんですけど、今後こういうことがあったら断ってもいいですか?って。」

と。


優しい人が損をする

もちろん、少ない人数の職場では、自分の仕事だけやっていればいいということはなく、他人に力を貸したり、協力し合ってなんぼだと思います。

けれど、それを頼む側が当たり前だと思って感謝もしなくなったり、ましてや、予定があって半休を取り、早退することがわかっている相手にたいして、その都合を無視して自分がやるべき仕事を頼むというのは、明らかにおかしいと思いました。

今回は、業者の立会い時間が15時からだったので、多少帰宅時間が押しても十分間に合いましたが、そういう問題ではないと思いました。

予定どうこうよりも、夫自身がそのことでストレスを感じているのは明らかだったし、こんなことを夫一人で溜め込んでも、時間が解決するようなことではないと思ったんです。

今回無茶ぶりをしてきた上司の方は、このようなことが初めてではなく、所長もその人のそうした部分は問題視しているようでしたが、これまで何度注意しても本人が変わることはなかったらしく、諦められているとのことでした。

だから、私の意見通りに夫が相談したとしても、劇的に状況が変わることは見込めません。

ただ、気持ちの問題として、そうした問題を十分理解できるだけの背景を知る所長に、事実として報告するだけでも、夫一人で抱える負担が少しでも軽くなるのでは、と私は考えて、意見を伝えました。


夫の気持ちもよくわかります。

「そうは言っても・・・」
「そんなことしたら余計仕事がやりづらくなるだけ」

人数が少ない会社では、こんな風に、誰かが我慢してそれを背負い、声や態度が大きい人の良い分や要求が通りやすく、その人にとって「働きやすい職場」になりがちだと、経験上思います。

我慢する人が、心を病んで辞めていき、我慢しない人が、勤続年数を重ね、立場が上がっていく。

そういう会社で働くことが、私には耐えられず、無理でした。夫にも、そうしたことで心を病んでほしくなかったです。


「わかってる、わかってる」
「もう大丈夫だよ」
「うん、もういいから」

私が何度も同じことを念を押すように言ったために、それが夫にとってはしつこく、余計なお世話に感じさせてしまったんだと思います。

夫は、ただ愚痴を「聞いて欲しかっただけ」と言いました。

私は「愚痴なんて聞きたくないから、行動しろ」「愚痴ってるだけじゃ何も変わらない」という主旨のことを言いたかったのではないですが、そうしたニュアンスで伝わってしまったらしく、

「聞く気がないなら聞かなくていい」

と言わせてしまいました。

そうじゃない、と否定したくて、私も語気が強くなり、しつこいと既に言われているのに、同じことを繰り返してしまいました。

そのうちに夫の声は大きくなり、「全部お前のせいだ」と怒鳴られてしまって、私はそれ以上の言葉を聴きたくなくて、話すことをやめました。


そのあとで話し合いをして、仲直り?はしました。


「怒り」のコントロール

ただ、同時に「分かり合えない部分」はどうしてもあるんだな、と感じました。

「大声を出されること」「ものに当たること」については、実はこれまで何度も「やめてほしい」と伝えてきました。(10回近く、あるいはそれ以上)

そのたびに「もう二度としない」と約束してくれました。どうして嫌なのかということも、私の言葉で伝えてきたつもりでした。

けれど、今日話してみて、私が嫌だと思う理由について「うるさいから」というだけなのだと夫は解釈していたようでした。

もちろん、うるさくてびっくりするとか、近所迷惑だということも私は気にします。

ただそれだけではなく、大声を出されることで不安や恐怖を感じたり、そこに「目の前の相手を傷つけよう」という意図(無意識だとしても)が感じられるから、それがつらいのだと私は改めて説明しました。

大声を出すときには、そのぶん息を吸ったり、「大きな声を出してやる」という意志があるはずです。

また、誰彼かまわずやってしまう「癖」とは違って、たとえば職場の上司などには「やってはいけない」と自制が働くはずです。

つまり、自分でコントロールしようと思えば出来ることだと思うんです。


防御としての攻撃

現に私はもともと、自分の気持ちを相手が理解してくれないとき、思い通りにならないときなどに、何時間もぶっ続けで相手を罵倒・非難するような言葉をぶつけ続けるような、攻撃的な人間でした。自分が傷つけられることが耐えられず、その分他者への攻撃性がものすごく強かったんです。(相手は恋人などの親しい関係性の人に限る)

そのため、夫にたいしても、感情が抑えられなくなると、ものすごくきつい口調で責め立てるということが、意見が食い違うたびに多々ありました。

それでも、自分のぶつけた言葉のせいで夫がひどく落ち込んだり、傷つくあまり取り乱している姿を見たことで、「こんなこと良くない」と反省し、悔い改めました。

また、夫を傷つけるということは、夫を大切に思う両親や夫の友達のことをも傷つけることになると思ったからです。

攻撃的な部分も、自分を守るため、生きるために私が身につけてきた鎧・武器のようなものかもしれません。ただ、だからといって、それで他人を傷つけていいわけではありません。

突然やめることは簡単ではないし、衝動に駆られると喉まで出かかることもあります。殴りかかりたくなるときもあります。

でも、今はそれを必死に抑えています。


「怒り」のコントロール

もちろん、それは他の人からすれば「人として当たり前のこと」かもしれません。だから、それをやったから「褒めてくれ」なんて言えません。

ただ、夫を大切に思うからこそ、自分を捻じ曲げてでも変えようとしていることは知ってほしくて、話しました。夫にも、大声を出すことを、自分でやめるようコントロールしてほしいと伝えました。

また、愚痴を聴きたくないとか、自分の意見を押し付けて悦に浸りたいとかそういうことではなく、夫の辛さや悩みが痛い程理解できるからこそ、これ以上ストレスをため込まないためにどうしたらいいか、一緒に考えたかったんです。私の意見をすべて取り入れて実行しなければ気が済まない、ということではなく・・・


「怒り」は、他のどんな感情よりも、自分のなかで抑えたり、コントロールすることが難しいと思います。

正直、言い合いになったとき、頭にカッと血がのぼると、相手のために言葉を選ぶ余裕がなくなりそうになります。

あと少しで口から出そうな言葉を、かろうじて残っている冷静さで必死に飲み込みますが、それがものすごく苦しいです。それをしないと、相手がちゃんとわかってくれないんじゃないか、というもどかしさがあるからです。

この、自分の欲求や衝動を抑える行動は、まるでニコチンやアルコール依存の方が、禁断症状が出ているにもかかわらず必死に我慢しているときのような、そんな感じかもしれません。
(なったことがないのでわかりませんが…)


さいごに

自分が「変わりたい」「変わらなければならない」と思えた、いわば人生の分岐点は、私はいつも「誰か自分以外の人のため」でした。

この人に見合う自分になりたい、この人をもう二度と傷つけたくない、そういう強い思いが、自分を捻じ曲げるエネルギーになっていました。


夫婦といっても、生まれ育ちの違う他人同士です。

すべてを理解したり、許したりすることは難しいです。


まとまりがないですが、今日思ったことをわ~~っと書きました。

とりあえず刺繍をして、気持ちを落ち着かせようと思います。

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