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宝物の沖縄家族旅行の思い出
姉がすぐに旅行の計画や予約をしてくれて
GWに家族揃っていくことに。
父の進行が早かったこともあり、
とても迅速にすすめてくれて、
家族旅行が実現できました。
介護タクシーの予約やホテルへの事情連絡、
空港会社への連絡、沖縄の介護タクシー予約
など、全て調べて予約してくれた姉に、
本当に感謝です。
とはいえ、父が車椅子になってから
介護タクシー以外での移動ははじめて。
ましてや飛行機なので
重度介護で学んだこと〜悩まない。考える。〜
父の介護をして自分が大きく成長できたことのひとつが「自身の悩みに対する対応」です。
もともと石橋を叩いて壊すよね
と言われたほど慎重派の私ですが、
今は悩むことはほぼありません。
それは
悩む=結局前に進んでない
作業になってしまっていたことに
気がついたからです。
父がALSと診断されて全介護必要になってから、
最初はよくひとりで泣いていました。
それは父がつらそうで、
変えられない現状
ALS確定診断 ラジカット治療開始
ALSと診断され、退院。
ラジカット治療に通うようになった父。
この時はまだゆっくり誰かの支えがあれば
自身で歩けていました。
自分の足で歩けることが、どれほどしあわせで、
できることをどんどん奪われていくことが
どれほどの恐怖なのか、
まだこの時は家族みんなわかっていなかったです。
実家近くで、ラジカット治療を受け入れて下さった
クリニックさんも、ラジカットは初めて行うと説明を受けました。
思い出せない 宣告の日
怪我の後、最初に父の会社の提携の整形外科へ。
そこでは怪我をした足の治療を
していただきました。
仕事は休職という形をとってくださり、
ここから、父の検査の日々が始まります。
このあと、別の都内の大学病院で検査。
ここでALSの疑いがある。。
確定はできない。
と言われ、また別の病院へ。
そして後に、父が最期を迎えることになった病院に、脳から全て調べる検査をしに伺いました。
この検査は
ALS⑤〜繰り返す怪我〜
父の怪我も治り、また日常が戻ってきたと
家族みんな思っていました。
そんな中また、父が仕事中転んで
骨折をしてしまったと連絡が…
この時は転んだ後、立ち上がることもできず、
たまたま通りかかった方に助けていただいて
病院へ行ったと母から聞きました。
あまりにも怪我の頻度が多いこと、
父自身も足の運びが悪い事を感じていたので、
精密検査をすすめられ、
母と父、3人で病院へ。
得体の知れない怖
ALS④〜父との思い出①〜
私は、両親、母方の祖父、兄、姉の6人家族で育ちました。
営業職をしていた父は、休みは週一だけ。
自分は何の贅沢もせず、
いつも家族のために
仕事をがんばってくれていました。
今思えば仕事で疲れているはずなのに、
貴重な休みの日はいつも車で
いろいろな場所へ家族を
つれていってくれました。
そして結果をもとめるわけではなく、
色々な経験をさせてあげたいと
たくさん学ぶ場もつくってくれました。
ALS③〜病気がわかるまで〜
2017年
父は定年退職後も、非常勤で
マンションの管理人の仕事をしていました。
とても整理整頓上手な父だったので、
住民の方に喜んでいただいたり、
現役時代とはちがったゆったりとしながらも
喜んでもらえる仕事に
やりがいをかんじているようでした。
派遣されるマンションが週ごとに
変わるため、
お嫁に行った私には毎日のように
今日は〇〇の現場だよ!
(私)のお家に近い現場だから、
遊びに行
AlS②〜父と歩いたバージンロード〜
私の結婚式当日。
父は数ヶ月前に仕事中に転倒してしまい
捻挫をし、足を引きずって歩いていました。
私は無理しないでと伝えていましたが、
父は大丈夫。絶対歩く
といってくれ、
二人手を組んでバージンロードを歩くことが出来ました。
本当にしあわせでした。
このときはただの怪我。
家族みんなが思っていました。
もしかしたら、父本人は
何かおかしいと感じながらも
言えずにいたのかもしれません
筋萎縮性側索硬化症 ALS①
ALS(筋萎縮性側索硬化症)という
病気をご存知ですか。
alsという病が広く知られるきっかけとなったのは
2014年にアメリカからはじまった 「アイスバケツチャレンジ」でした。
私もこの病をはじめて知ったのは
このアイスバケツチャレンジでした。
後に私の父が、
その病と闘うことになるなんて
想像もしていませんでした。
情報の少ないこの病。
私自身、この病と闘う方々にSNSを通じて出会い、