フォローしませんか?
シェア
花子出版 hanaco shuppan
2021年10月9日 10:36
始まり 年代物の赤ワインが、透き通るほど磨かれたワイングラスに注がれていた。ワイングラスは高層ビルから溢れる光を受け、薄い縁が刃物のように輝く。二つのうち、片方のグラスの縁には、薄い桃色の口づけが付いていた。グラスの間に置かれたキャンドルは、親指くらいの炎を上げ、時の経過を穏やかに奏でつつ、テーブルを挟む若い男女を眺めていた。どこか、覚束ない炎だ。空調が効き過ぎているわけではなく、紺色の蝶ネク
2021年10月10日 07:27
大輔の半生 大輔は、熊本の天草にある小さな村で生まれ育った。両親は平凡な会社員だ。休日は野良仕事に精を出す。決して裕福ではないが、祖祖父が建てた家を、まめに改築し、都会では考えられほどの広い家に住んでいた。田舎の特権だろう。畳張りの部屋がいくつもある。その部屋のどれもが、大輔の遊び場となり、畳の張替え頻度が年々増やしていった。両親は呆れることなく、又怒ることなく、穏やかに笑っていた。 幼少
2021年10月11日 07:02
遥香と別れ (前半)「ねえ、聞いているの?」 遥香は語気を強めた。蘇る記憶で恍惚となる大輔は、瞳にうっすらと涙の膜が覆い、散漫となっていた。すると、いつの間にか、グラスが空になっていた。ウェイターにアイコンタクトを取り、ワインを催促する。ウェイターは無音で赴き、ワインを注いで去った。「ねえ、聞いているの?」「ああ、聞いている」「私はね、大輔と別れたいの。もう、レストランを出よう
2021年10月12日 06:46
-遥香と別れ (後半)- レストランの入った高層ビルを出ると、蒸し暑く湿った風が吹いていた。冷房の効いたレストランとは違い、汗ばむ陽気だ。都庁方面から歩いてくるスーツを上品に着こなす人々の群れが、大輔と遥香の周りを錯綜しながら、帰路を急ぐ。「なあ、もう一軒行こう。遥香の好きなお店ならどこでも良い。さっきのレストラン見たいな高級な場所でも、高架下の場末の居酒屋でも、なんでもいいんだ。全部、
2021年10月13日 07:24
-別れ、そして男との出会い- 幾分の時が去った。生と死の中間を彷徨っているような夢見心地が霧消し、新宿のBARに帰ってきた。気がつくと、顎を支えていた頬杖は、朽ちた古木のように崩れ落ち、カウンターにうつ伏せになっていた。頬はシャツの皺の跡がつき、赤くなっている。さりげなく上体を起こし、辺りを見渡した。殆どの客が入れ替わり、変わらずに和気藹々と会話を楽しんでいた。「同じものを」 大輔は氷
2021年10月14日 07:25
-大学にて- 新宿で過ごした稀有な夜から、一週間ほど経った。遥香が大輔に連絡することはなく、学部も違うため顔を合わせることもなかった。大輔は大学へ行き、講義を受け、夕方からアルバイトする生活は、変わりなく続いた。溢れかえった恋愛ソングを拝聴し、失恋で悲傷した感情を、涙の海で慰めるような、若者らしい発想は微塵も浮かばず、記憶に残る遥香の影を熊手で掻き集め、記憶の片隅に葬る作業をコツコツと行なった
2021年10月15日 07:06
-合コン- 大輔はトレーニングを終えてシャワーを浴び、待ち合わせのために大学の最寄り駅へ向かう。夕暮れ前、駅は学生で溢れていた。「やあ」 前方から健斗が現れた。大輔は手を上げて答える。「さあ、行こうか」 健斗が先導し、ホームへ降りた。「今日は、女の子が二人で、俺ら二人の二対二になった。まあ、二対二の方が話しやすくて良いだろう。SNSで見る限り、可愛い女の子だったよ。乞うご
2021年10月18日 07:06
吉田の戦い 対峙していた吉田と宮本は、戦術を探り合うように距離を詰めてゆく。吉田は左手を前に突き出し、右手は腹部付近に置き、膝を軽く曲げた構えだ。吉田が摺り足で動いていると、ボクシング出身の宮本は俊敏な足取りで吉田の背に回ってゆく。背後を取られると、試合運びが困難になるだろう。 大輔は、年末に家族と格闘技の番組を見るほどの知識で、格闘技に関して博学ではない。既知は、ゴングが鳴り、ゴングが鳴
2021年10月19日 07:29
-大金を手に-「お疲れ様です」 大輔は言った。吉田は表情を変えず、勝利に喜んでいる素振りもなかったが、肉体には汗が輝き、戦果を称え、美を更に修練させていた。 吉田はパイプ椅子に座り、試合前と同じように腕を組んでいる。すると黒いスーツを着た男が吉田に近付き、白色の分厚い封筒を渡した。吉田は封筒を受け取り、中身を確認することなく、大輔に差し出した。これはなんだと思いつつ、大輔は封筒を受け取
2021年10月21日 07:41
-大輔の『義』への入り口- 開店前の居酒屋にて、大輔とアルバイト先の店長が向かい合って座った。薄暗い照明が、店長の顔色を一層蒼白に塗り替えていた。厨房にいる数人のアルバイトの男女は、齷齪と開店準備に追われてつつ、時折二人の様子を眺望していた。珍しいのだろう。大輔は彼らの視線を頬で感じた。「店長、すみません。アルバイトを辞めさせて下さい」 大輔は深々と頭を下げた。店長は腕組みをしている。
2021年10月22日 08:00
幼馴染との時間を回想 田圃の畦道を幾多も超えて、クヌギの森へ向かう。大輔が先頭を歩き、幼馴染の男の子が後方を歩く。空っぽの虫籠が背中で小さく跳ねているが、ランドセルのような煩わしさは感じない。畦道から森へ入ると、蝉の鳴き声が彼方此方から聞こえてきた。人家が遠く、人の気配はない。たった今、この森が、二人だけの世界に作り変わった。欺瞞することも、厭世することもない。黒いクワガタ虫の小さな希望を求め
2021年10月23日 07:07
-再び、地下へ- 懐古的な晴れやかな気持ちで、新宿の街をぶらつく。幼馴染の男の子がいない侘しい感情すらも咀嚼し、美味に変える。皆、大人になってしまったのだ。骨が太くなり、胸板が厚くなり、至る所に太い体毛が生えていた。不細工だと、他人から揶揄されるかも知れない。他人の経験と教養から導き出された、美に反すると。実際に、遥香から揶揄された。しかし、彼女は知らない。店長も知らない。両親だって、大学の教
2021年10月25日 07:18
多磨霊園に眠る 新宿から下り電車に乗り、多磨霊園を目指す。黄色の横線が入る電車の車窓に、小粒の水滴が疎らに張り付き、東京の街をより不鮮明に描き直していた。少ない乗車客の中、大輔は窓の外を眺めながら過ごしていた。 地下施設での二日目は、静かに明けた。馬乗りで殴られていた吉田は、ジャクソンの腕の関節を取り、苦戦しつつも勝利した。額には複数の切り傷を作り、頬には真っ赤な痣が痛々しく浮かんでいた。
2021年10月26日 06:46
『義』とは それから、数日経った。大輔は大学図書館の机に座り、複数の辞書を引いていた。『義』について、辞書を引き、細部までも深慮したかった。 ある辞書には、『人としてふみ行うべき道。利欲を捨て、道理にしたがって行動すること。「義人」「信義」』 ある辞書には、『儒教における五常(仁・義・礼・智・信)の一。人のおこないが道徳・倫理にかなっていること』 との記載がある。大輔は辞