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『義』  -吉田の戦い- 長編小説



吉田の戦い

 対峙していた吉田と宮本は、戦術を探り合うように距離を詰めてゆく。吉田は左手を前に突き出し、右手は腹部付近に置き、膝を軽く曲げた構えだ。吉田が摺り足で動いていると、ボクシング出身の宮本は俊敏な足取りで吉田の背に回ってゆく。背後を取られると、試合運びが困難になるだろう。

 大輔は、年末に家族と格闘技の番組を見るほどの知識で、格闘技に関して博学ではない。既知は、ゴングが鳴り、ゴングが鳴って試合が終わる。戦意喪失し、相手が倒れると決着がつく。立ち技や寝技があり、競技によって変わる。その程度の知識で、格闘技の番組に興奮することはなかった。しかし、リング上で繰り広げられる肉体から吹き出る戦火を肌で感じていると、自己の中に眠る、生命から派生する死の恐怖と瑣末な闘争心が湧きたち、手足が細かく震え始めた。

 相手のセコンドは、吉田の動きに合わせ適宜助言を送る。大輔は、何をすべきか検討がつかない。吉田のコーナーに立っている以上、応援しない選択はないだろう。恐らくソファに座る観客やレフリーは、自分と吉田の関係を身内もしくは師弟関係と思っているのだろう。

「頑張って下さい・・・」

 大輔は技術的な助言を出来ず、闇雲に言葉を吐いた。

 宮本の素早いジャブに合わせ、吉田は膝を柔らかく曲げ、上半身を柳のようにしなやかに動かしながら交わしてゆく。宮本のジャブは吉田の身体に当たらず、腕から吹き出る緊張と恐怖の溶け込んだ汗が、宙に舞った。ジャブを交わす度、観客が地鳴りのような声を上げた。

 吉田は宮本のジャブ交わすのみで、一撃も攻撃を加えない。

 ゴング開始から幾分の時が経った。激しい攻撃の数々で、息が荒れてきた宮本の右ストレートが大きく空を切った。軽快だった宮本の足が縺れて、体制を崩して前のめりになる。次の瞬間、吉田はリングマットを蹴り、しなやかに跳躍した。狙いすましたスナイパーのように、鋭角に右膝を折り曲げ、宮本の左頬に突き刺した。

 ガコッ、と鈍い音が鳴り響き、宮本の肉体は、糸を切った操り人形のように大の字になり倒れた。マウスピースが転がり、口から血が垂れ始めた。白いリングマットが、子供の落書きのように血に染まってゆく。吉田は倒れる宮本に背を向け、大輔の立つ青コーナーに悠然と歩く。レフリーが宮本に駆け寄り、頭上で両手を大きく振り、観客へ試合終了を伝えた。

 数回のゴングが鳴った。観客の拍手が会場を包む。

 相手のセコンドが宮本に駆け寄り、応急処置を施した。吉田は表情を変えずにリングから降りた。


続く。


長編小説です。

花子出版   倉岡




文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。