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『義』  -大輔の半生-  長編小説


大輔の半生

 大輔は、熊本の天草にある小さな村で生まれ育った。両親は平凡な会社員だ。休日は野良仕事に精を出す。決して裕福ではないが、祖祖父が建てた家を、まめに改築し、都会では考えられほどの広い家に住んでいた。田舎の特権だろう。畳張りの部屋がいくつもある。その部屋のどれもが、大輔の遊び場となり、畳の張替え頻度が年々増やしていった。両親は呆れることなく、又怒ることなく、穏やかに笑っていた。

 幼少期、田圃の畦道を駆け回ったり、笹薮を切り開いて開秘密基地を作ったり、と自然の中で悠々自適に過ごした。村の至る所にクワガタ虫がいる穴場を知っている。ハヤがたくさん泳ぐ淵を知っている。赤いインクばら撒いたように広がる、野イチゴの在り処を知っている。それらは、幼馴染の男の子との二人だけの秘密の場所となった。秘密の場所は、誰にも教えない。親にも教えない。たった二人だけの、秘密の場所だった。

 自然を愛した理由を探すと、テレビゲームを買って貰えずに、移りゆく四季に揺られて無意識に時間潰しをしていたからだ。自然が遊び場だった。ゲームを持つ子供へ、羨望の目差しを向けることがあったが、過度な嫉妬や恨みを持つことはなかった。父から、嫉妬や恨みは愚劣な感情だ、と教えられた記憶があるものの、実際には、森を吹き抜ける風が、畦道に咲く蒲公英の綿毛をそっと吹き飛ばすように、愚劣な感情が湧き上がると、そっと吹き飛ばしてくれた。自然の好きな理由が、もう一つ見つかった。

 小学校は、全校生徒が四十人ほどの小さな木造校舎だった。先生や地域住民との距離が近く、和気藹々と日々を過ごした。

 小学三年生の時だった。汗が吹き出す初夏のある日、大輔は幼馴染の男の子と、新たな秘密基地の開拓へ向かった。背負うリュックサックは、家から持ち出した鋸や食料品、漫画や玩具を詰め、丸く膨らんでいた。限界集落の一角にある笹薮は、地の果てに足を踏み入れてしまったかのように平静だった。二人は笹薮を掻き分けて、秘密基地に適した場所を探す。暫く進むと、特徴的な形のクヌギの木が生えていた。秘密基地の目印になりそうだ。二人は無心で鉈を振り回し、邪魔になる背丈ほどの笹や小枝を切り落としてゆく。子供の手作業ながら、一時間ほど経つと、笹薮に小さな空間がぽっかり空いた。二人の楽園だ。まるで、蒼茫な海原に浮かぶ無人島にハンカチほどの旗を立てるような、又金鉱を掘り当ててしまったような、この空間は高揚感の源泉となった。

 二人は寝転がり天を仰いだ。クヌギの葉を透き通る太陽の光が眩しく、大輔は目を細める。額や鼻先に顔を出した汗を、汚れたTシャツで拭い去さった。隣で寝転がる幼馴染の横顔を見ると、首筋に光る汗があった。二人で目を合わせ、無垢な笑顔を浮かべる。親の手を離れて二人で手にした一畳ほど空間は、大人の村民が知らない二人の世界は、世界地図をいくら張り合わせても足りないほど広闊だった。

 幼馴染は起き、リュックサックに手を入れた。

「ジンジャーエールを飲もうよ」

 幼馴染はジンジャーエールの缶を大輔のお腹に置いた。大輔は背中を起こし、体育座りになる。二人は同時に缶を開け、音を立てて一気に飲み干した。冷えていないジンジャーエールは、夏の味がした。大輔はそう感じた。横目で幼馴染の顔を見ると、夏の味がする、と頬に書いてあるような気がした。蜃気楼の一種だろうか。

「漫画を読む?」

 幼馴染が問い掛けた。

「読まない」

 大地は答えた。寝転がり、風の声を聞きたかった。笹を擦り抜ける風の声を聞くと、切り開いた秘密基地へ、誰も入れぬように鍵をかけている気分で、愉快になった。

「大輔くんの夢は何?」

「サッカー選手かな。俺、サッカーが好きだから。中学校に入ったらサッカー部に入ろうと思っているんだ。俺らの小学では、人数が足りなくてサッカーが出来ない」

「大輔くんは運動神経が良いから、きっと、なれると思うよ。有名なサッカー選手になってね。僕は、なんだろう・・・。まだ、分かんないや。僕らってどんな世界が待っているんだろう。中学生になったら、自転車で学校へ通うようになるし、高校生ならバイクに乗り始める。大人になれば車に乗れるよね。それって楽しいのかなあ・・・」

「乗り物ばっかり」

「僕は乗り物が好きだもん。あ、飛行機の運転手になりたいなあ。まだ、乗ったことないけれど。大空を飛んでみたいんだ。ねえ、もし、飛行機の運転手になれたら、大輔くんを乗せてあげるね。一緒に世界中を旅したいなあ」

「あ、空に飛行機が飛んでいるよ。小さいなあ」

 大輔は人差し指を空に突き出す。赤トンボくらいの飛行機が見えた。真珠色の飛行機雲を生みながら、ゆっくりと西へ向かい、次第に笹薮に隠れて視界から消えた。

「行っちゃったね、飛行機。ねえ、大輔くん?」

 幼馴染が問い掛ける。風に掻き消されそうなほどの弱々しい声だ。

「僕たちは、ずっと友達だよね? これからもずっと。大人になってもずっと」

「うん」

 大輔が頷くと、幼馴染は満面の笑みを浮かべた。色白の頬はうっすらと赤く染まり、小さなえくぼが二つ転がっていた。

 日が傾き、肌寒い風が秘密基地へ吹き込んできた。二人は鉈や空き缶を、リュックサックに入れて笹薮を後にした。

 舗装された細い道路を夕日に向かって歩き、三叉路で別れた。

「じゃあね、大輔くん。また明日学校で」

「バイバイ」

 大輔は立ち止まり、幼馴染の背中を眺めた。数台の軽トラックが、甲高い音上げながら、横を擦り抜けてゆく。夕飯が恋しいのだろう。幼馴染の華奢な背中が、刻々と小さくなっていった。バイバイを言おうと思い、浮遊するユスリカを飲み込むほどに大きく口を開けて息を吸い込んだ。膨らむ肺にて、汚れたTシャツが大きく膨らみ、印字されたアルファベットの文字が歪む。暫く、息を止めた。しかし、吸い込んだ空気を一気に吐き出し、声には出さなかった。明日も会える。ずっと会える。

 幼馴染と秘密基地を整備し、自然の中で小さな冒険を繰り返しつつ、淡く濃い経験を記憶へ刷り込ませながら小学校の時は過ぎてゆく。彼方此方に作った楽園は永遠だと思っていたが、永遠なものなど、この世界のどこにもなかった。そのことについて、担任の先生や両親は、一切教えてくれなかった。恐らく、彼らは教えることが出来ないのだろう。夏草が鬱蒼と茂るように、大輔の心境や環境へも、刻々と不毛な雑草が芽を出し始めた。

 中学へ進学すると、幼馴染との距離が開き始め、いつしか疎遠になった。村から学校へは、同じ通学路だが、擦れ違っても挨拶を交わさない。どちらからというわけではなく、花の開花時期が似通っているように、同じ瞬間に変わった。大輔はそう思っている。もちろん、理由なんて探すことをしない。それ以上に、新しい世界が待っていた。

 新しい友人と網の目状に繋がり、学校生活は円滑に転がった。身体を動かすことを好み、運動部に所属し、中学、高校と平凡に過ぎていった。秀才の片鱗は呑気に寝ていた。

 高校卒業後、親に懇願し、予備校に通った。一浪し、十九歳から東京の私立大学へ進学した。

 風の吹くまま身を転がし、女の子が多いテニスサークルに入部した。飲み会が多く、活気のあるサークルだった。そんな中、同じ浪人生だった遥香へ一目惚れし、恋人の関係となった。テニスサークルの雰囲気に馴染めず、数ヶ月でテニスサークルを去ったが、遥香とはデートを重ねて円満な関係を築いた。

 アルバイトにて生活費を稼ぎ、授業に出席し、有り触れた大学生活を送っていた。田舎のような澄んだ風は吹かないが、ホームシックに罹らなかった。卓越する大都会の風に染まり、田圃ばかりの田舎から乖離してゆく優越感が背中を押していた。中高の同級生とは音信不通だ。


続く


長編小説です。

花子出版

文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。