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『義』  -大輔の『義』への入り口- 長編小説



-大輔の『義』への入り口-

 開店前の居酒屋にて、大輔とアルバイト先の店長が向かい合って座った。薄暗い照明が、店長の顔色を一層蒼白に塗り替えていた。厨房にいる数人のアルバイトの男女は、齷齪と開店準備に追われてつつ、時折二人の様子を眺望していた。珍しいのだろう。大輔は彼らの視線を頬で感じた。

「店長、すみません。アルバイトを辞めさせて下さい」

 大輔は深々と頭を下げた。店長は腕組みをしている。

「電話で聞いたけれど、どうした、突然? 体調が悪いなら、遠慮なく言ってくれ。俺は大輔のサポートを全力でしたい」

「えっと、単刀直入に申しますと、働く気がなくなりました」

「何?」

 店長は嘲笑しているが、声が震えている。

「述べたとおりです」

「それは大人として、なってないんじゃないかい? 音信不通で消息不明にならなかったことは、褒めてやろう。でも、俺の店はみんなのチームワークで成り立っているんだよ。大輔が開けた穴はどうするのだ?」

「それは申し訳ないと思いますよ。でも、もっと大事なことに時間を使わないといけないのです」

「ほうほう、何か大事なことに巻き込まれているように思えるぞ。目が狂気染みている。ちょっと話してみなさい。故郷のご両親も、さぞ心配しているだろうに。それに、給料日がまだ先だろう。金がないと生活できないだろ」

「お金は・・・」

 大輔は言葉に詰まり、俯いた。金の問題ではない。アルバイト代の数年分の金が、自宅の押入れに眠っている。

「お金はあります」

 大輔は断言した。

「わかった。大輔にも、色々と思いがあるだろう。まあ、若い時は仕方ない。田舎から東京に出てくると、都会のもの、新しいもの、煌びやかなものの全てが珍しいものに思えてくる。そういうものだ。俺が若い時もそうだったからな。さあ、仕事をするとスッキリするぞ。そうだな、勤務後に、皆で飲みに行こう。仲間の有り難さを、学べるぞ。全てがチームワークだ」

 店長が言葉を並べてゆく。

「分かりました。今日は働きます」

 店長の言葉を遮るように言った。ここで議論しても埒が明かない、と見切った。

「分かったか。それはよかった、よかった。今日はな、大学サークルの団体予約が複数入っているから、忙しくなるぞ。厨房を頼んだ。大輔はこの店にとって掛け替えのない人材だからなあ」

 店長は椅子から立ち上がると、去り際に大輔の背中をパチンと叩いた。背中の痛みが、暫く居座った。

 大輔は更衣室で着替え、白い長靴を履いて厨房に向かう。

「おはようございます」

 大輔と厨房のアルバイトの男女は、よそよそしく挨拶を交わした。窮屈な厨房が、更に縮まった。大輔は手を洗い、お新香の盛り付けなどの仕事を始めた。

 開店と共に、人の群れが店内に押し寄せてきた。小慣れた笑みを作る店長の溌剌とした声が、店内の隅々まで行き渡る。厨房では、ドリンクの注文が入り始め、大輔は仕事に追われた。ビールを注ぎ、グラスに氷を入れてカクテルを注ぎ、焼酎を注ぎ、バーボンを注ぐ。グラスの水面から漂うアルコールの匂いが鼻をつく。新宿のBARにて吉田が飲んでいるバーボンの銘柄とは、違うはずだ。飲み放題を歌っているこの店は、銘柄不詳の陳腐なバーボンを使っていた。滞ることのない注文に辟易し、大輔はアルバイトに背を向け、バーボンを一口飲んだ。喉が熱くなり、頭が冴えてくる。すると、吉田の肉体が蘇ってきた。吉田は集中力を高めるために、バーボンを口にし、言葉を発することなく、築いた理論に基づき、リングに上がっているのだ。居酒屋に入り浸る客と吉田との間には、劃然とした違いがある。奴らは、一流を知らない人間たちだ。一流になれない人間たちだ。大輔は客に餌付けをする気分で、軽快にドリンクを作っていった。

「大輔、スッキリしてきただろう。どうでも良いことを、彼是悩んでいても仕方ないぞ」

 店長は大輔の後ろに立ち、掌で背中を叩いた。

「ええ」

 大輔は手を止めずに答えた。

「今日は飲みに行くか? 一生懸命に働いて、美味しいお酒を飲もう。今日は俺のおごりだ」

「おおーーー」

 店長の一声によって、厨房のアルバイトたちが、餌を待つ家禽動物のように活気に満ち溢れた。一方、大輔は変わらぬ速度で勤務時間の過ぎ去るのを待った。決して彼らを軽視するわけではなく、静観し、吉田と彼らの相違点を探した。吉田なら、どんな言動をとり、どんな立ち振る舞いをするのだろうか。意図と反する方向へ世界が動こうとするとき、どんな思慮の広がりをするのだろうか。様々な仮定を並べて、解答を探ってゆく。

 ドリンクの注文に合わせ、厨房を機械的に動き回りながら、業務をこなす。酩酊する人々を、多少は幸せに出来たのだろう。

 閉店後、店長やアルバイトたちは朝まで営業している居酒屋に入った。

「お疲れ様でした」

 大輔と店長、アルバイトたちの数人でテーブルを囲み、生ビールが注がれたグラスを割れない程度で激しくぶつける。大輔が周りを見渡すと、店長やアルバイトたちは疲弊する石膏の仮面を外して表情が緩み、瞬時に輝き出した。

「今日は、いつも以上に忙しかったなあ。そして、大輔も元気を取り戻したみたいで、何よりだ」

 大輔の隣に座る店長が、大輔の背中を叩く。大輔は、叩かれるのは何度目だ、と若干の苛立ちを感じつつ、口に含んだビールを飲み干した。ビールの苦味が、普段以上に喉をつく。仕事を繋ぎ止めるために、秘薬を入れているのではないだろうか、と疑り深くなった。空になったグラスを覗き込むと、キメの細かい白い泡が浮かんでいるが、これといって異物はなかった。思い過ごしだろうか。

 料理を摘まみ、酒を飲みつつ時間が過ぎてゆく。壁に寄り掛かり、寝息を立てているアルバイトが現れ出した。大輔はちびちびとビールを飲んでいた。

「それはそうと、大輔、この前に紹介した、新宿のレストランどうだった? 絶景だっただろう。あのお店は、俺のお気に入りなんだぞ」

 店長の酒臭い息が、大輔の頬に放たれた。

「ええ。夜景が綺麗でしたね」

「紹介が出来てよかった。あの店は一見さんを断っているんだ。俺のコネがあったから行けたんだぞ。感謝しろよ、感謝を。それで、彼女とは、その後にお泊まりだろう? ああ、若いって羨ましいなあ」

 店長は身勝手に言葉を繰り出す。

「彼女とは別れました。レストランで振られてしまいました」

「何? それは、お前の言動に問題があったんじゃないのか? あんな夜景を見て、喜ばない女はおらんぞ。お前が悪い。絶対に。せっかく紹介してやったのに、俺の恩を無下にしやがって」

「すみません。彼女の期待に応えることができなかったわけでして」

「お前は言い訳が多いぞ。だから、アルバイトも辞めたくなるんだ。最近の若い者はこれだからなあ。根性がないというか、気合が足らないというか、何というか・・・」

「店長。僕はアルバイトを辞めます。もう、あなたと働く気にはなれません」

 大輔はきっぱりと断言した。

「おっと、またよからぬ、方向に歩き出しているな。まあまあ、ビールを飲めよ」

「店長の恩は忘れません。恐らく。今日までお世話になりました。では・・・」

 大輔は立ち上がろうと、テーブルに手をついた。すると、店長が大輔の肩に手を当て、抑止させる。

「まあまま、彼女に振られて躍起になっているんだろ。それか、もしかして別の女の子が好きになったって言うのかい? ふしだらな男だな」

 大輔は店長の手を振り振り払い、体制を崩した店長の顔を凝視する。虚ろだった店長の目に、力が入った。

「女、女、女って。口を開けば、異性の話ばかり。そんな性欲だけで、男が生きていると思っているのでしたら、それは男に対する冒涜です」

「お前は違うのか? 偉そうな事を並べやがって」

 店長が起き上がってきた。

「ええ、もちろん」

 大輔は反論する。

「なら、お前は何を求めて生きているのか? どうせくだらないことだろう」

「俺が大事な事は『義』です。『義』。わかりますか? 『義』です。それ以上に輝かしいものは、東京のどこを探したってありません。そのへんの百貨店にも売ってないでしょうし、歌舞伎町のお姉さんからも貰うことが出来ないでしょうね」

「『義』だって? そんなの流行んねえよ。どこに、『義』を貫いて生きている男がいるんだ。戦国時代じゃあるまいし」

「いますよ。店長が知らない世界に」

「いない。そんな男はいない。世界中の皆は、私利私欲のために生きているんだぞ。大輔は大学で経済学を習っているだろ? 『義』で世界が回るか? 欲望でしか世界は回らない。資本主義なんてそんなもんだ。自分さえ良ければ良いんだ。『義』なんて、流行んねえ、流行んねえ。もし、『義』を貫いている男がいるなら、いっぺん御目に掛かりたいもんだ。連れて来てくれたら、気が済むまで何度でも土下座してやるぜ」

「言いましたね?」

「おう、何度でもしてやるさ。命を賭けても良い」

 店長が勝ち誇った笑みを浮かべた。大輔は、リングに立つ吉田の勇姿をぶち撒けたくなったが、地下施設の契約書の文面が脳裡を過ぎり、口を慎んだ。悔しいが、ここで死の一因を作るのは、本末転倒だ。

「へ、店長みたいな男が、安安と命を賭けられますか。どうせ、その時になったら、ベソかいて泣きつくんでしょ。言うは易く行うは難し、って諺ありますもんねえ。店長の為に作られた諺でしょうね、きっと」

「何?」

 店長は大輔の胸ぐらを掴み、押し倒そうと全身の力を乗せた。攻撃を待ちわびた大輔は、両手で店長を勢いよく弾き飛ばした。正当防衛だ。すると、店長が床に突っ伏し、そして、奇声を発しながらダルマのように立ち上がってきた。二人は掴み合いになる。

 見兼ねたアルバイトたちが、二人の間に割って入った。

「大輔。お前なあ。店長を何だと思っているんだ。一番偉いんだぞ。頭にきた。もうお店には来るな。お前の替えはいくらでもいるんだ」

 店長の息遣いが荒くなり、眉間には細かい皺が盛り上がる。

「では、失礼します」

 大輔は立ち上がり、店長を一瞥して居酒屋を後にした。

 抜けてしまったように空が暗い。砂地へ潜り込んだように空気が重い。埃が舞い、至る所に塵が棄てられ、覆い隠すように燦爛たるビルが技巧的に聳え立つ。道端の排水溝が、恍惚とする人々の感情を、下水へと受け流す。しかし大輔の心は、まるで草原に立ち清澄な風を全身で受けているように晴れ渡っていた。後味が悪かろうが、店長との悪縁が切れ、今後一切アルバイト先の不穏な空気を吸う必要なないのだ。

 彼女だった遥香が去り、アルバイト先の居酒屋と決別し、大輔は完全に自由の身となった。陽気になり、商業施設から出てくる人々を立木を避けるように歩いていると、幼馴染の男の子との懐かしい感情が芽生え、表情が綻んだ。いつだっただろうか。小学何年生だっただろうか。血中を流れるアルコールが、鮮明な思慮を邪魔していた。



続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。