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『義』 -幼馴染との時間を回想- 長編小説
幼馴染との時間を回想
田圃の畦道を幾多も超えて、クヌギの森へ向かう。大輔が先頭を歩き、幼馴染の男の子が後方を歩く。空っぽの虫籠が背中で小さく跳ねているが、ランドセルのような煩わしさは感じない。畦道から森へ入ると、蝉の鳴き声が彼方此方から聞こえてきた。人家が遠く、人の気配はない。たった今、この森が、二人だけの世界に作り変わった。欺瞞することも、厭世することもない。黒いクワガタ虫の小さな希望を求めるだけだ。雑念がなく、豁然としていた。瞳に飛び込んでくる、物質が放つ全ての色彩が美しかった。宙を揺曳する透明すらも美しい。
「ねえ、クワガタはいるのかな?」
幼馴染が大輔の背中へ問い掛ける。
「きっといるよ。安心しな」
「うん。ありがと、大輔くん」
「この森は俺らのものだよ」
二人は森の奥に進んだ。
クヌギの木を一本一本、足元から枝先まで、絶え間なく見て回る。夏草が皮膚の上に些細な傷をつけてゆく。半袖半ズボン姿の二人だが、へっちゃらだ。
「大輔くん、見つけたよ。大きいクワガタだよ」
幼馴染が、嘆声をあげる。大輔は幼馴染の所へ向かった。クヌギの木を幾つも交わしながら、幼馴染を探すと、木陰に、金色の麦わら帽子あった。幼馴染は、顔を上げる。瞳が黒いビー玉のように、澄んでいた。
「ほら、見て」
幼馴染が指差す。そこには、大きなヒラタクワガタが六本の足を駆使し、幹にしがみついていた。見入る大輔の黒い瞳が、幼馴染と同じように澄んでゆく。すると、黒いクワガタ虫の背羽根が、二人の瞳の色を吸い取り、黒光りを始めた。
「大きくて、すごく綺麗だ」
大輔は、心が飛び出すほどの歓声を漏らした。
「このクワガタは、大輔くんにあげるよ。僕は上手に育てきれないと思う。きっと、このクワガタも、大輔くんに飼ってもらいたいと思っているはず。クワガタの顔に書いてある」
「君が見つけたんだろ。遠慮しなくて良いよ」
「僕はね、この森に連れてきて貰えただけで、嬉しいんだ。いつも、冒険に誘ってくれるでしょ。だから、そのお礼だよ」
幼馴染の瞳には、涙の膜が張っていた。大輔はクワガタ虫を手に取り、太陽に翳した。クワガタ虫の六本の足が乱雑に動いている。突き出た二本の鋭い顎が、開閉する。
「こいつは逃がしてあげよう。この森の主かも知れないな」
クワガタ虫を幹に返した。すると、クワガタ虫は羽根を開き、落莫な羽音を立て、天に向かって飛び立った。二人はクワガタ虫を目で追ったが、太陽の眩しい光に溶け込み、二人の瞳から消え去った。
「いっちゃったね。あいつはこの森の主だ。大輔くんが言うからには、間違いないよ。また会えるかな・・・」
幼馴染の声が侘しい。
「きっと会えると思うよ。今日は帰ろうか、大きいクワガタに出会えただけで、十分だ」
「うん。入道雲があんなに大きくなっている。夕立がやってくるかも知れないね。大輔くん、今日もありがとう」
二人は手を繋ぎ、クヌギの森を抜け、畦道を抜けた。
迫り来る夕立の香りが、村を覆い始めた。嘆く蝉の鳴き声に合わせて、空の虫籠が乾いた音を立てている。何も捕まえなかったが、寂しさはない。大輔は幼馴染の手を握り、引っ張りながら歩いてゆく。歩幅が多少大きいのかも知れないが、幼馴染はスキップを踏むように健気に付いてくる。テレビゲームも、玩具も、お菓子も、好きな女の子も、不安や恐怖も、何も要らない。鼓動に合わせ、呼吸に合わせ、額から滲み出る汗に合わせ、純白な画用紙に夏色の絵の具で落書きを描き、山が崩れるほどの哄笑する時間だけが必要であり、ここ場所にはそれがあった。
続く。
長編小説です。
花子出版 倉岡
文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。