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『義』  -別れ、そして男との出会い- 長編小説



-別れ、そして男との出会い-

 幾分の時が去った。生と死の中間を彷徨っているような夢見心地が霧消し、新宿のBARに帰ってきた。気がつくと、顎を支えていた頬杖は、朽ちた古木のように崩れ落ち、カウンターにうつ伏せになっていた。頬はシャツの皺の跡がつき、赤くなっている。さりげなく上体を起こし、辺りを見渡した。殆どの客が入れ替わり、変わらずに和気藹々と会話を楽しんでいた。

「同じものを」

 大輔は氷が溶けて水になったカクテルを飲み干し、女の店員に追加のドリンクを注文する。

「かしこまりました」

 店員がにっこりと笑顔を作り、手元でカクテルを作り出す。

 扉が開く音が鳴った。意識しなければ聞こえない微かな音だ。

「いらっしゃいませ」

 店員が入り口に向かい、挨拶した。来店した男は、辺りを見渡し、カウンターの端に座った。大輔の三つ隣の席だ。

「バーボンロック。ダブル」

 男は低い声で注文した。小慣れた口ぶりから察するに恐らく常連客だろう、と大輔は妄想に浸りながら、男の容姿を横目で観察した。寝起きの脳は、過ぎ去った記憶より、眼前の景色を欲していた。

 男は皺一つない紺色の背広を着て、鏡のように磨かれた革靴を履いている。純白のシャツの上に、漆黒のネクタイを滴らせ、腕には高級時計をつけている。草臥れた勤務後の会社員とは、似付かない格好だ。ブランド品に疎い大輔の目にも、決して似非富裕層が持つような本物気取りのブランド品ではなく、漂う香りで一流品だと判断出来る。分厚い胸板から伸びる大木のような首は、鋭利な鉈でも断首は困難だろう。刈り上げられた髪に、太い揉み上げが目を引く。バーボンの注がれたグラスを持つ指先は、太く勇ましい。

 男は瞼を閉じ、バーボンを一口飲み、グラスをカウンターに置く。グラスがテーブルに触れる瞬間、無音が広がり、次の瞬間、グラス内のアイスが溶けて動き、乾いた音がカラッと鳴った。大輔は息を飲みつつ、恐る恐る男の顔へと視線を動かす。顔の彫りが深く、キリッとした目尻、黒みがかった分厚い唇、岩を貼り付けたような硬い頬骨、全てが剛健だ。仁王門に立つ像のように剛健だ。

 すると、大輔の視線に察知した男は鋭い目つきを放ち、黒い瞳が大輔の身体を捉えた。それは、獣が野ウサギを狩る時に見せるような、一瞬の緩みもなく、緊張を研ぎ澄ました鋭い眼光だ。一般人の弛んだ眼光ではない。男と目が合い、大輔は身が凍った。指先で握るカクテルグラスが粘土だと思えるほど、身体の硬直を節々で感じた。目線を逸らすべきだろうか、それとも笑顔を作り会釈すべきだろうか、と思索を巡らすものの、身体は動かず、更に男の肉体の動きに見入ってしまった。吸い込まれてしまった。

 男は一息にバーボンを飲み干し、店員を呼んだ。店員が来ると、ピン札の一万円をカウンターに置き、椅子から立ち上がる。店員は笑顔で、ありがとうございます、と言った。男は風のように店から立ち去った。

 大輔の脳裡に、男の肉体、仕草、眼光、声音の全てが激しく焼き付いた。

「すみません」

 大輔は女の店員を呼んだ。

「はい。何か、ご注文なさいますか?」

 店員は大輔の前に立った。

「いえ、注文ではありませんが・・・」

 店員は怪訝そうな表情を浮かべる。

「えっと、先ほどBARを出た、男の人について。紺のスーツを着ていた男の人です。体格が良い男の人です」

「あ、そこのカウンターでバーボンを飲んでいたお客様のことでしょうか?」

「はい」

 意思が伝わり大輔は目を丸くした。

「吉田さんとお知り合いですか?」

「あの人は吉田さんですか」

「ええ、そうですよ。ここの常連さんです。それで如何されましたか?」

「えっと、ちょっと風変わりと言いますか、新宿では見かけない感じの人だなあ、と思いまして。どんなお仕事をされているのでしょうか? ご存知ですか?」

「不思議な方ですよね。お釣りも受け取らずに、いつも一万円のピン札を置いて帰られます。オーナーから聞いたのですが、五年以上の常連さんとの事です。お仕事は何をされているか分かりません。何もお話になりませんからね。私も興味あるんです。でも詮索するのも悪いですしね」

「五年以上も・・・。寡黙な男だという、俺の直感は、遠からず当たっているようですね。吉田さんかあ。また会って見たいなあ」

「吉田さん、物凄くトレーニングされていますよね。腕も首も胸も指先も、全てがゴツゴツして、一枚岩を彫刻師が削り取ったような身体。格闘技か何かをされているのかなあ」

「格闘技・・・。身に付けている高貴な品々を見ると、もし格闘技をされているなら超一流の選手でしょうね」

「そうですよ。吉田さんは、アルマーニのスーツなんです。アルマーニ。私みたいな女子大生には、一年フルでバイトしても買えるか買えないかの、目が飛び出る位高級なスーツですよ。腕にも、よく分からない高級そうな時計を付けていらっしゃいますし。凄いなあ」

「へえ、アルマーニ。それは、凄い。きっとフルオーダーでしょうね。身体の線にぴったり合っていました。もし、オーナーにお伺いしましたら、吉田さんのことを詳しく教えてくれますか?」

「うーむ、どうでしょう。オーナーでも吉田さんのことを殆ど知らないと言っていましたからね。謎の男。なんだか、とても格好いいですね」

「とてもね」

「また、ご来店をお待ちしています。運が良ければ吉田さんにお会いできるかも知れませんよ。そして、気が合えばお話出来るんじゃないかな」

「気が合えば、かあ・・・」

 大輔はカクテルを飲み干した。

 会計を済ませ、小洒落た装飾のあしらわれたストアカードを店員から貰い、BARを後にする。これで、入り組んだ裏路地が犇めく西新宿の街でも、BAR迄辿り着けるだろう。新宿駅へ向かうつもりだったが、不慣れな街にて右往左往する。酩酊する会社員の群れや、腕を組む男女に方向感覚までも奪われ、仕方なく立ち竦む。

 本来の予定では、遥香と同じ時間を過ごすはずだった。決して人肌が恋しいわけではないが、孤独になるのは侘しい。人生で初めての彼女だった遥香は、一体どこに行ってしまったのだろうか。自宅へ帰ってしまったのだろうか。それとも、懸想する男の元へ行き、愛を深めているのだろうか。

 自動販売機に背中を預け、洋服が透けるくらいに女を凝視した。変な目で見られても構わない。変わった人間なら彼方此方に転がっている。

 目に飛び込んでくる女は、もちろん遥香ではない。

 侘しく思いつつ、遥香と歩く女との視覚的な相違点を探す。すると、酒酔い特有の錯乱ではなく、実際に相違点はあまり浮かばない。歩く女には乳房があり、髪の毛があり、腕や足は、か細い。もし、化粧や衣服に一工夫加えと、歩く女と遥香のを比較すると酷似しているのではないだろうか。いや、間違いなく酷似している。自分と歩く女と抱き合う妄想を企てていると、悶々とした気分になり、描いていた恋愛という幻想がひどく下賤に感じてしまった。

 生まれて初めて、深い溜息を吐いた。すると、何かが崩れ去る音が鳴った。瞼を閉じて、崩れる音へ耳を傾ける。切り立った岩盤をダイナマイトで破壊するような音にも、又割れかけた小石を足裏で踏みつけるような音にも聞こえる。肉体の痛みはなく、病ではなさそうだ。観念の崩壊だ、と勝手に決めつけてみると、多少愉快になり、口元が緩んでしまった。

「おい、そこを退いてくれ。缶コーヒーを買いたいんじゃ」

 小汚い服を着る男が、大輔へ声を掛ける。

「あ、すみません」

 大輔は自動販売機から背中を外し、瞼を開け、声を掛けてきた男の顔を一瞥する。男の顔は真っ黒に焼け、皺が幾多にも刻まれている。鼻をつく、強烈な臭いを発している。大輔は逃げるようにして、新宿駅へと向かった。

 駅へと急ぐ足音が、雨音のように聞こえてきた。終電が迫っている。大輔も周りに合わせて小走りで急ぐ。汗を滲ませながら駅に着き、ホームへ駆け降り、終電に飛び込んだ。電車内は、新宿を離れたくない乗客の願望が蠢いている。終電が去ると、新宿の夜が終わってしまうのだろうか。大輔は夏物スーツの広告を眺めながら、アルマーニのスーツを着た吉田の姿を想起する。新宿の夜が始まり、吉田の仕事が始まったのだろう、と勝手に妄想を膨らました。

 電車がゆっくりと走り出した。


続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡

文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。