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美術史第72章『近世ペルシア美術』


ティムール朝

  15世紀中頃、ペルシア地帯の全域を支配していたモンゴル帝国の後継国家でイスラム教国家だった「ティムール朝」の西部、アゼルバイジャン地方周辺でテュルク系オグズ族による「黒羊朝」が独立、同時にティムール王家で継承者争いが起こり、その間に黒羊朝が拡大し首都ヘラートまで占領した。

 その後、ティムール朝の内戦が終わり、黒羊朝が撤退すると黒羊朝と同じくチュルク系オグズ族の国家である 「白羊朝」が黒羊朝に代わって拡大、ティムール朝もサマルカンドを首都とする政権とヘラートを首都とする政権に分裂してしまい、サマルカンド政権はキプチャク・ハン国が滅亡した後にチュルク系ウズベク族を主体に生まれたシャイバーニー朝に滅ぼされ、ヘラート政権も一時は繁栄したがシャイバーニー朝に滅ぼされた。

サファヴィー朝

 16世紀初頭にはイスラム教の神秘主義(スーフィズム)の教団に属すクズルバシュと呼ばれる勢力の指導者であるイスマーイールが白羊朝を滅ぼし、「サファヴィー朝」を建国、シャイバーニー朝の領土も奪ってペルシアの大部分を統一するが、16世紀中頃にはオスマン帝国とシャイバーニー朝により一時衰退、しかし、その後の16世紀末期にはアッバース大王の軍備強化と中央集権化で強力な帝国が誕生し、当時、アジアで勢力を伸ばしていたイギリスやオランダなどとも同盟を締結した。

サファヴィー朝の青と白の陶器
ラスター彩
タイル画

 このサファヴィー朝ペルシア帝国の美術では陶芸と金属工芸において大きな変化が発生したとされ、高価な素材ではなく色のついた生地を埋め込んで色を出すようになり、また、この頃には中国美術の影響も大きく、陶芸で磁器が高く評価された他、ミニアチュールや絨毯に中国的なモチーフを青と白で描いたものが多くなるなどした。

イマーム広場
アリ・カプ宮殿
シャー・モスク

 建築の分野では大帝国を築き上げたアッバース大王により新しい首都とされたエスファハーンは「イマーム広場」を中心に都市建設が行われ数多くの庭園や「アリ・カプ宮殿」のような離宮、有名な「シャー・モスク」のようなモスクなどが建設されていき、「エスハファーンは世界の半分」と言われるほどに発展した。

リダー・アッバースィー
『恋人たち』
『朗読する少年』

 ミニアチュールの分野では250以上の挿絵が描かれた「シャー・タフマースプのシャー・ナーメ」というペルシアの民族叙事詩が最高峰とされ、その後の17世紀にはアッバース大王が死にサファヴィー朝が衰退していったため、王族も高価なミニアチュールを注文しなくなり、結果として芸術家達がイラストやデッサン、カリグラフィーなどを紙に描いて、それを愛好家が購入して収集するという仕組みが誕生、この時代の代表的な画家としてはミニアチュール画家の中でも最大の巨匠の一人であるリダー・アッバースィーがいる。

ナーディル・シャー

 その後の18世紀初期、アフガニスタン南部でサファヴィー朝から独立したホータキー朝がペルシアの大部分を占領、しかしサファヴィー朝の摂政であったナーディルがホータキー朝を滅ぼし、さらにオスマン・トルコに奪われていた領土を取り返して18世紀中頃には自ら王に即位して「アフシャール朝」を建国した。

 しかしアフシャール朝から独立したザンド朝がその大半の領土を奪い、18世紀末期には「ガージャール朝」を建国したアーガー・モハンマドがザンド朝を滅ぼし、その後のペルシア一帯ではガージャール朝とアフガニスタンで誕生したドゥッラーニー朝が繁栄するが、19世紀初期には東方進出を行ったロシア帝国による侵略や植民地帝国を築くイギリス帝国の介入が始まり、19世紀にはガージャール朝ペルシアとドゥッラーニー朝アフガンは双方ともがイギリスとロシアの半植民地の状態になってしまった。

ゴレスターン宮殿
Mihr 'Aliによる二代王ファトフ・アリー・シャーの肖像

 また、ガージャール朝ペルシアでは首都となったテヘランの発展とともに有名な「ゴレスターン宮殿」などのような巨大な建築が建設されるようになり、一方で、絵画の分野ではイギリスやロシアの影響下で西洋美術の影響を大きく受けることとなり、実際に歴代のガージャール朝のペルシア王の肖像画は西洋画風の油絵で描かれているものである。

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