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「ゆゆ式」は何がどう凄いのか?を考察してみた

日常系の特徴

表現媒体「漫画」は能力や魔法、モンスターなど、日常生活ではありえないことを実現できるため、それらの手法を取り入れるのが常道となっています。また、自然法則を無視したり、歴史や時代を交差させたり、今までに存在しなかったマスコットキャラクターを生み出すことで、非日常的な世界観を創造・構築できますし、カップリング次第でストーリーをいくらでも量産できる利点があります。

ところが、最近ではこれらを利用しない作品群を目にするようになりました。一般的に、作品の作中を構成している「空気」は主に次の2種類があります。1つは主人公サイドが戦う緊張感のある空気で、もう1つはギャグや道化を入れて場の緊張感から解放された緩んだ空気です。通常はこの2種類の間にどちらにも該当しないつなぎを入れてお話に緩急や抑揚をつけるのが基本ですが、2000年を少し過ぎた頃からは、緩んだ空気のウェイトを限りなく100%に近づけていく日常系(空気系)が台頭してきており、その勢いには目を見張るものがあります。

日常系作品の大きな特徴は、ストーリーの前後のつながりがさほどなくても違和感が生じない非連続性にあって、第1話から見始めなくても楽しめる手軽さがあります。また、何度も繰り返し見て楽しむことができる飽きの遅さが挙げられます。もちろん、どんな作品であれ何度でも見て楽しむことはできますけれど、紆余曲折の末に主人公が戦って勝つようなベタな展開だとストーリーの連続性があるので嫌でも覚えてしまうものです。当然ながら飽きは早くなり、頻繁に見ることはなくなります。

日常系作品のストーリーの非連続性はそれを逆手に取った形です。延々と繰り返される他愛のない会話の詳細や、それらの順番を覚えるなんて簡単にはできません。熱狂的なファンや信者でもない限り、そんなことはしないでしょう。そういう意味では、日常系作品は繰り返し見ても飽きがきにくい作品群と言えるのです。

日常系の中の特異点「ゆゆ式」

日常系と呼ばれる作品は世の中にたくさんありますが、2018年で10周年を迎えた「ゆゆ式」は "ノーイベントグッドライフ" に象徴されるように、ストーリー作りのためにイベントを使わない特異な作品です。キャラクターが自分の成長のために何か頑張ったりすることはないですし、登場人物の中で誰1人として不幸になるキャラクターはいません。

有史以来、人類は生存競争を勝ち残るために、他人の成功や幸福よりも失敗や逆境、不幸に脳が快感を覚える能力を獲得しました。その効果を狙って、キャラクターに不幸な境遇を付与して注意を引きつける創作手法もあるにはありますが、それも「ゆゆ式」にはありません。

このように、「ゆゆ式」は簡単にストーリーのネタになるような材料をことごとく断って純粋に日常の本質を描きだす、この1点でお話を魅せようとしている前衛的かつ挑戦的な作品だと捉えられるのです。本来、表現すべき日常を希薄化させる恐れがあるイベントにストーリーのネタを頼っている日常系作品があるなかで、純日常系や極日常系と呼べるような新たなジャンルを開拓した「ゆゆ式」は歴史的に価値の高い作品と言えるでしょう。

「ゆゆ式」とその面白がり方

「ゆゆ式」の世界観は現実世界のレベルに限りなく近く、それをわざわざ漫画で描いているのです。しかも、3人のメインキャラクターが終始とりとめのないトークをしているに過ぎません。なので、何かドラマティックな展開を期待している人が「ゆゆ式」を初めて見たら、何も事が起きないつまらなさに虚無感を覚えるに違いありません。

見終わったときには「何も内容が無かったけど、何がどう面白いのか誰か説明して!」と文句が飛び出すはずです。このように戸惑う原因は、キャラクターが戦うことで読者や視聴者の興味・注意を引く王道タイプの漫画やアニメと同じ見方をしているからです。そのような見方は「ゆゆ式」をはじめとする日常系作品には通用しないのです。

「ゆゆ式」の面白さは、3人のキャラクターによる内輪で成立する以心伝心のコミュニケーションが作り出す場の空気感に集約されます。一見すると何もないようで、実はずっとそこに存在しているのが「ゆゆ式」の正体なのです。「ゆゆ式」は紙面やモニター上に画として描くことができない無形無数の空気感の代名詞であり、この作品の大部分を占める根幹を成しています。

原作者の三上小又先生の言葉を引用すると『「ゆゆ式」に登場するキャラクターは読者を笑わせる意識がありません』。それもそのはず、キャラクターには読者側の世界が見えていないからです。一般的な漫画だと客引き目的でキャラクターにあからさまなサービスシーンやあざとい演技をさせることがあります。その度合いが過ぎればキャラクターやお話が不自然となり、最悪作品の世界観に没入していた読者を引き離す恐れがあります。「ゆゆ式」にそれらが無いとは言いませんが、それが作品の売りではないので、一部の読者には残念ですが作中で描かれることはほとんどありません。

作中において、そのような無理強いからキャラクターたちを解放したことによってストレスが軽減され、自分の良さをのびのびとアピールできる環境が生まれました。その結果として、リアリティのある場と雰囲気を実現しているのだと考えられます。読者は「ゆゆ式」の内輪のコミュニケーションに不可視の傍観者として参加し、3人の小気味良い独特な言い回しやテンポに引っぱられて、気がつけば「ゆゆ式」の空気感と一体化しています。

そして、一通り見終わって振り返ったとき、おそらく初見と同じ疑問がもう一度思い浮かんでくるはずです。「一体、何がどう良かったんだろう?」と。この問いの答えを一言で言い表すなら人間関係の贅沢になるでしょう。これは作中で最も大切にされているものであるにも関わらず、人の目で見ることはできません。心で観なければ「ゆゆ式」を面白がることはできないのです。

まとめ

ここまで記述してきた通り、「ゆゆ式」には何かストーリーのネタになるようなトークや遊ぶ以外のイベントをすることはなく、何かについてキャラクターが頑張ることもなく、キャラクターが読者の気を引く演技をすることもなく、戦うこともしなければ勝敗もつかず、誰かが不幸になることもありません。このような無い無いづくしの制約のなかで人間関係が形成されていく日常が描かれ、目に見えない場の空気感を面白がるような作品はおそらく「ゆゆ式」以外に存在しないでしょう。

あとがき

個人的には、「ゆゆ式」によってキャラクターが何人か集まってトークをするためのちょっとした舞台と初期の人間関係の設定さえしてしまえば1つの作品を創ることができるのだと、驚きをもって気づかされました。ここまで読んでくださったものすご~く物好きな方は、2013年放送当時 "聴く哲学" とも称された「ゆゆ式」アニメ第一話をご覧になって、自分が感じた人間関係の贅沢を体感してみてください。

( 'ω' ).。oO( 派手にキャラクターがケンカして、退屈してる人の気を無理に引こうとせんでも作品ってのは作れるんやなぁ…… そのこと自体に感動したわ

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