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中国古典の研究をしている、京都大学の大学院生です。難しいと思われがちな中国古典について、極力分かりやすく解説していきます。 研究ブログは→ https://chutetsu.hateblo.jp/ 自活できる研究者を目指しています。

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  • 鄭玄で学ぶ中国古典

    後漢の大学者である鄭玄の一生やその学問を通して、中国史・中国古典の世界を知ることができる記事です。

最近の記事

歴史の書き方―「論文を読む!」

 「鄭玄で学ぶ中国古典」シリーズを執筆するに当たって、さまざまな書籍・論文を読むために遠くの大学図書館まで泊まりで出張したことは、前回紹介しました。  今回は、オンラインで公開されている資料をどう利用していくか、ということを説明してみようと思います。  「鄭玄で学ぶ中国古典」の参考文献のページのある論文のうち、オンラインで読めるものは以下です。 ・大庭脩「漢の嗇夫」(『東洋史研究』一四(一)、一九五五) ・池田秀三「馬融私論」(『東方学報』五二、一九八〇)、 ・池田秀三

    • 終戦前後の中国古典学者

       最近、太平洋戦争真っ只中の時期に、中国古典を研究する学者たちがどのような発言をしているのか、妙に気になってきました。日本と中国が戦争状態に突入する中で、中国古典を研究する学者がどのような態度を取ったのかということは、現代に同じく中国古典の研究を志す私も知っておかなければならないと考えたからです。  中国史・東洋史の学者に関する動きであれば、私でも聞いたことのある話がいくつかあります。例えば、白鳥庫吉は「満鮮地理歴史調査部」を立ち上げて満州や朝鮮に関する歴史・地理に関する研

      • 「歴史」の書き方―「足で稼ぐ!」

         先日まで、『鄭玄から学ぶ中国古典』というシリーズを更新してきました。読んでいただいた方の中には、「こういった内容の記事は、どうやって書くものなのだろうか」と疑問を持たれた方がいらっしゃるかもしれません。  シリーズ内でも、どのように「歴史」の研究をするか、その描写をするか、ということはたまに触れましたが、具体的にどのように書き進めたのかということは特に説明しませんでした。  そこで、「どのように歴史に関わる内容の文章を執筆したのか」ということを簡単に説明していきます。中国

        • 人はなぜ陰謀論にハマってしまうのか

           今の世の中は、陰謀論に溢れています。  最近出回った例としては、「新型コロナウイルスは〇〇がわざとバラまいたもの」であるとか、「新型コロナワクチンは〇〇がマイクロチップを埋め込むために作ったもの」などがありますね。  人はなぜ陰謀論にハマってしまうのでしょうか? 上の主張を荒唐無稽であると笑うのは簡単ですが、多くの人が信じ込んでしまうのも事実です。陰謀論を信じてしまう心理については、心理学や歴史学などさまざまな分野から分析されていますが、ここでは、「陰謀論自体に、あらか

        歴史の書き方―「論文を読む!」

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        • 鄭玄で学ぶ中国古典
          15本

        記事

          『鄭玄から学ぶ中国古典』おわりに

           読者の皆様、ここまで読んできていただいて、本当にありがとうございました。内容については誤りもあるでしょうが、いま自分が書きたかったことはなんとか説明できたと思います。  最後に、一つの疑問に答えなければなりません。本シリーズで長々とやってきたような歴史や古典に対する研究・考察は、現代我々が生きていくに当たって、何の役に立つのでしょうか?  これに対しては、たくさんの回答が浮かびます。実は、「役になんて立たなくていいじゃないか、楽しいんだからやらせてくれよ」なんていうのが

          『鄭玄から学ぶ中国古典』おわりに

          後篇・第七章「現代の視点」

          鄭説の意義 後の歴史の展開を見ると、第四章の終わりで述べたような矛盾は内包しながらも、鄭玄はその後長く受け継がれる体系的な礼制度の構築に成功したと言えます。これが経学においてどのような学術的役割を果たしたのかという点について、最後に考えることにいたしましょう。  何度も述べたとおり、経書はもともとがバラバラに成立したもので、全体量も多いですから、様々な内容を含んでいます。極端に言えば、「AはBである」ということもあれば「AはCである」ということもあり、「ⅩとYは同じ」とある

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          後篇・第七章「現代の視点」

          後篇・第六章「鄭学の受容と批判」

          王粛の登場 鄭玄より少し後の時代、鄭説の反駁者として有名なのが魏の王粛(一九五~二五六)です。王粛に関する研究も非常に多く、鄭玄と王粛の学説比較はもちろん、王粛が西晋の皇帝である司馬氏と親戚関係にあることから、政治上の立場と王粛の学説を結び付ける議論も盛んです。  王粛は、『孔子家語』という本の偽作者に認定されたこともあって常にマイナスイメージがついて回り、「何が何でも鄭玄に反駁することを好んだ偏屈な学者」という偏見を持たれたこともありました。  「鄭玄」の説明が本書の目的

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          後篇・第六章「鄭学の受容と批判」

          後篇・第五章「鄭説の概要」

          儒教の最高神―昊天上帝 ここまで、鄭玄の学問に焦点を当てて、基礎作業、解釈方法、その理念と実践を解説してきました。この本書の構成を見てみなさまがどうお感じになられたのか分かりませんが、実は学界で一般的に「鄭説の解説」と言われた時に想像されるメジャーどころの内容を、まだほとんど説明していません。むしろ、ここまで取り上げてきた「君子謂衆賢也」「留車・反馬の礼」「含・襚・賵・賻」「三者同制説」といった事柄は、歴代の議論ではあまり注目されておらず、どれも鄭玄の思考を見る例として(筆者

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          後篇・第五章「鄭説の概要」

          後篇・第四章「鄭玄の「礼」研究」

          周代の礼制を復元せよ ここまで、鄭玄の経学における基礎作業、理念、思考法を見てきました。以上を踏まえて、彼が具体的にどのような成果を出したのか、本章で見ていきましょう。  鄭玄の学問成果は、何といっても「礼学」に発揮されました。「礼」とは古代中国を語る上で最も重要な概念の一つで、社会秩序を保つための政治的・社会的・倫理的な決まり事(規範・制度など)のことです。  「礼」には、「子は父を敬うべき」といった抽象的な指針から、「父の喪には三年間服し、その時に着る服は最初は○○で

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          後篇・第四章「鄭玄の「礼」研究」

          後篇・第三章「鄭玄の経書解釈法」

          六藝論―鄭玄の経書観 鄭玄の経書観は、初期の著作である『六藝論』に整理されており、ここに彼の学問全体を貫く構想が示されています。「六藝」とは、易、詩、書、礼、楽、春秋の六種の経書を指します。このうち『楽』は散佚してしまいましたが、「六藝」といえばこの六種の経書を指すと考えてください。なお、「藝」は「芸」の旧字体ですが、中国では「芸」は別字になりますので、「藝」の字を使っておきます。  さて、ここから鄭玄の経書観がどういったものであったか把握し、彼の経書解釈の指針について考察

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          後篇・第三章「鄭玄の経書解釈法」

          後篇・第二章「鄭玄の著作」

          著作一覧 前章で、鄭玄の注釈の特徴を見るための背景は把握することができました。ここでわれわれは、鄭玄研究のスタート地点に立ったと言えるわけです。ではまず、鄭玄研究の基礎となる、鄭玄の著作の一覧を見ておきましょう。鄭玄の思考を追っている過程で何が何だか分からなくなったとしても、この中のどこかに、きっと答えが眠っているはずです。 ・『周易』注(佚書) ・『尚書』注(佚書) ・『尚書大伝』注(佚書) ・『毛詩』箋 ・『周礼』注 ・『儀礼』注 ・『礼記』注 ・『三礼目録』(佚書)

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          後篇・第二章「鄭玄の著作」

          後篇・第一章「経学という営み」

          イントロダクション 前篇で、鄭玄は現存する伝記資料が少ないと述べましたが、鄭玄自身の著作や文章であれば、後漢の人としてはかなり多く現存しています。これらを読解することに出発し、前篇で述べた彼の生涯や社会背景を踏まえながら、鄭玄の学問の実態に迫っていきましょう。  まえがきで述べたように、鄭玄の学問は「難解」とか「繁雑」とか「膨大」とかいう形容詞がついて回るものです。これは決して我々現代人だけが得る感覚というわけではなく、同時代的に認識されているイメージです。『後漢書』に同時

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          後篇・第一章「経学という営み」

          前篇・第四章「激動の時代」

          群雄の跋扈 鄭玄の生涯を追いかけているうちに、董卓・袁紹・曹操・劉備といった群雄が跋扈する、後漢のクライマックスに差し掛かってきました。  少し遡って、中平六年(一八九年)に霊帝が死に、外戚の何進が少帝を擁立しましたが、何進は宦官の反発に遭って死に追い込まれます。これによって宦官が権力を取り戻すかに思えましたが、すぐさま袁紹が宦官二千人余りを殺害します。この瞬間、外戚と宦官の両勢力が消えた空白が生じたことになります。この隙に付け入ったのが董卓で、彼は洛陽に入り少帝を引き下ろ

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          前篇・第四章「激動の時代」

          前篇・第三章「学塾での生活」

          久々の帰郷 長い修学時代を経て、四十歳になったとき(延熹九年、一六六年)、鄭玄は故郷の高密(Googleマップ)に戻りました。郷里に戻った鄭玄は、弟子をとって学問の指導に当たります。ここに開かれた鄭玄の私塾は、二世紀の後半の二十五年間にわたって栄えました。後漢の勢力が落ち、太学(都の公立学校)も荒廃していた当時、太学に代わる地方の私塾として大規模なものがいくつかありますが、鄭玄学塾もその一つです。  鄭玄の学塾は、栄えていたといっても、経済的に豊かであったというわけではあり

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          前篇・第三章「学塾での生活」

          前篇・第二章「盧植と馬融」

          友・盧植の存在 ここで、寄り道をして盧植という人を見ておきましょう。というのも、盧植と鄭玄は同年代の学者で対照的な存在であり、鄭玄の理解に当たって盧植の生涯は大きな示唆を与えてくれるからです。どちらかといえば、盧植の方が後漢当時の典型的な学者像を示していますから、後漢という時代を考える上でも理解しておくべき人物です。  盧植は、涿郡の涿(河北省涿州市:Googleマップ)の出身で、生年ははっきりしませんが、鄭玄と同世代であり、鄭玄より少し早く死去しました。『後漢書』の盧植の

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          前篇・第二章「盧植と馬融」

          前篇・第一章「生い立ちと学問の目覚め」

          イントロダクション 鄭玄(じょうげん・ていげん、一二七~二〇〇)は、その功績のわりに、現在に伝わる伝記資料の量が少ない印象を受けます。鄭玄の生涯を描写する上での最も重要な資料は、鄭玄の死の二百年以上後に作られた、范曄(はんよう、三九八~四四五)の『後漢書』に収められている鄭玄の個人の伝記(列伝)です。  鄭玄から范曄まで二百年の隔たりがあるとはいえ、范曄は当時既に存在していた他の数種の歴史書を参考にして『後漢書』の列伝を執筆しており、情報源がしっかりしていますから、その内容は

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          前篇・第一章「生い立ちと学問の目覚め」