見出し画像

後篇・第二章「鄭玄の著作」

著作一覧

 前章で、鄭玄の注釈の特徴を見るための背景は把握することができました。ここでわれわれは、鄭玄研究のスタート地点に立ったと言えるわけです。ではまず、鄭玄研究の基礎となる、鄭玄の著作の一覧を見ておきましょう。鄭玄の思考を追っている過程で何が何だか分からなくなったとしても、この中のどこかに、きっと答えが眠っているはずです。

・『周易』注(佚書)
・『尚書』注(佚書)
・『尚書大伝』注(佚書)
・『毛詩』箋
・『周礼』注
・『儀礼』注
・『礼記』注
・『三礼目録』(佚書)
・『論語』注(佚書)
・『孝経』注(佚書)
・『易緯』注(佚書)
・『尚書中候』注(佚書)
・『尚書緯』注(佚書)
・『礼緯』注(佚書)
・『六藝論』(佚書)
・『魯礼禘祫義』(佚書)
・『詩譜』(佚書)
・『論語孔子弟子目錄』(佚書)
・『駁五経異義』(佚書)
・『発墨守』『箴膏肓』『釈廃疾』(佚書)
・『鄭志』『鄭記』(佚書)

 王利器『鄭康成年譜』の「著作」の項には、他にも多数の著作が載せられていますが、ここでは佚文が比較的多く存する著作のみを掲げました。

 例えば「『周易』注」という本は、『周易』という経書の経文に対して、鄭玄が注釈を附して出来上がった書物です。これは『周易注』と表記しても同じことですが、以下で引用する際にちょっと不便なので、便宜上このように書いています。なお、鄭玄の注釈のことを、略して「鄭注」といいます。例えば「『礼記』の鄭注」とかいうように今後も使いますので、注意してください。

 「注」という表記が多い中、「『毛詩』箋」というのが気になるかもしれませんが、この「箋」は「注」と同じで、深い意味はありません。『毛詩』の鄭玄の注釈は「鄭箋」と略されます。ただし、『毛詩』箋について注意が必要なのは、これが二段構えの注釈だということです。前篇で、『毛詩』は「毛氏の『詩』の解釈書」と言いました。つまり、まず『詩』に毛氏の注釈(=毛伝)が付き、その上から鄭玄の注釈(=鄭箋)が付いたのです。

 もう一点、『孝経』鄭注に関しては真偽論争があり、いまだ決着を見ていません。本書で『孝経』に関する鄭説を示す場合は、『孝経』鄭注そのものは用いず、他の鄭注に引かれている鄭玄の『孝経』解釈から示すことにいたします。

 さて、上の一覧を見ると今は存在しない「佚書」ばかりじゃないかと思われそうですが、鄭玄の学説は古くから重視され様々な書籍に引用されていますので、どの本もかなりの割合で復元でき、おおよその内容は把握できます。このように、佚文を集めて佚書を復元する作業は「輯佚」と呼ばれ、佚文を輯佚して復元した本を「輯佚書」と呼びます。輯佚は古代の書籍を把握するうえで欠かせない基礎的な作業ですが、専門的な知識を必要とし、輯佚そのものが立派な研究の一つでもあります。

鄭玄が用いた経書テキスト

 前章で経書の校正の話をしましたから、鄭玄の著作一覧を見ると、これらの注釈がどのようなテキストに基づいて書かれたのか、気になっている方がいらっしゃるでしょう。『周礼』と『論語』は前章を見ていただくとして、他の主要な例を紹介しておきます。

 第一に、『尚書』について。後漢当時の『尚書』のテキストには、前漢の伏生に由来する今文系統のテキストと、孔安国に由来する古文系統のテキストがありました。漢代通行字体で書かれた今文『尚書』は二十九篇、秦代以前の字体で書かれた古文『尚書』は五十八篇で、文字の形だけではなく、その内容にも大きな相違があります。その後の学者間での授受には様々な説がありますが、ここでは劉起釪『尚書学史』の説を要約いたします。

 まず、今文『尚書』博士の官学ですから、授受系統が比較的はっきりしており、伏生以下、張生から夏侯氏へという系統と、欧陽氏の系統に分かれ、以後も官学として伝えられ後漢に至ります。

 一方、古文『尚書』の方ははっきりしませんが、新から後漢の初めに、杜林という学者がこれを手に入れました。このテキストは古文では書かれていましたが、今文と同じ篇の二十九篇しか存在していなかったようです。よってこれが孔安国の由来の本物のテキストであったかは疑わしく、今文『尚書』をただ古文で書き直したものであったのかもしれません。ともあれ、この古文二十九篇本を馬融『古文尚書伝』が承け、ここから盧植『尚書章句』鄭玄『古文尚書注』などが執筆されました。

 ただ、鄭玄は古文『尚書』だけを見ていたというわけではありません。今文『尚書』も見て、どの字句が妥当か、またどちらの解釈が妥当か、よく考慮した跡があります。一例を挙げておきましょう。

『礼記』緇衣
〔経文〕君奭曰、昔在上帝、周田觀文王之德、其集大命于厥躬。
〔鄭注〕古文「周田觀文王之德」為「割申勸寧王之德」、今博士讀為「厥亂勸寧王之德」、三者皆異、古文似近之。
 (『尚書』君奭篇の)古文は「周田觀文王之德」を「割申勸寧王之德」とする。今の博士はこれを「厥亂勸寧王之德」と読む。三者はいずれも異なっているが、古文が真に近いようだ。

 ここは、『礼記』の中に『尚書』が引用されており、その字句と解釈について検討するところです。鄭玄の持っていた『礼記』の旧本には「周田觀文王之德」とあり(『礼記』のテキストについては以下で述べます)、これと古文『尚書』の字句、博士の読解を比較します。「今博士」というのが、今文の読解を示すのでしょう。そして以下の省略した部分で、古文『尚書』の字句に従って解釈を行っています。

 さらに、鄭玄は今文学の『尚書』解釈を示す『尚書大伝』という著作に注釈を書いています。『尚書大伝』に対する鄭玄の序文が残っているので見てみましょう。

 蓋自伏生也。伏生為秦博士、至孝文時年且百歳。張生、歐陽生從其學而授之。音聲猶有訛誤、先後猶有差舛、重以篆隸之殊、不能無失。生終後、數子各論所聞、以己意彌縫其闕、別作章句。又特撰大義、因經屬指、名之曰傳。劉向校書、得而上之、凡四十一篇。(『玉海』巻三十七引『中興書目』)
 (『尚書大伝』は)おそらく伏生から受け継がれたものである。伏生は秦の博士で、漢の文帝の時には百歳に近かった。張生・歐陽生が伏生の学問を受けた。(伏生の伝授には)漢字の音にまだ誤りがあり、文の前後にも錯乱があり、篆書・隸書の混乱もあり、過誤がないではなかった。伏生の死後、弟子たちはそれぞれ学んだことを論じ、自分の意見でその不足を補い、個別に「章句」を作った。また、特に『尚書』の大義を著述し、経文に沿って要旨を述べ、これに「伝」と名付けた。劉向が校書したとき、これを発見して献上し、全部で四十一篇あった。

 ここから、『尚書大伝』は、伏生の教えを受けた弟子たちの手によって編纂された書物であることが分かります。これは伏生に由来する今文を用いたものであったはずであす。鄭玄がこれに注釈していることから、彼が今文の『尚書』解釈も用いていたことが分かります。

 第二に、『礼記』について。『礼記』の成立は経書の中では特殊なものです。もともと、前漢の戴徳・戴聖が様々な古典籍を何らかの方法で整理し、『大戴礼記』八十五篇『小戴礼記』四十九篇の二つが編纂されました。このうちの『小戴礼記』が、鄭玄の用いた『礼記』で、この経緯は鄭玄の『六藝論』にはっきり記載されています。
 よって『礼記』はもともと玉石混交の代物であり、「聖人の作」とされる篇もあれば、後世のものとされる篇もあります。以上の点についてはそれほど問題ないのですが、鄭玄が『礼記』に注したことについての興味深い記事が『鄭志』に記録されているので、これを検討しておきましょう。

 鄭荅炅模云、為記注之時、依循舊本、此文是也。後得毛詩傳、而為詩注、更從毛本、故與記不同。(『礼記』礼器疏所引)
 鄭玄は炅模に答えて「『礼記』の注釈を作った時、旧来の本に従った。この文がこれである。その後に『毛詩』を得て、このために注釈を作り、改めて毛氏の本に従った。よって『礼記』と異なるのである」と言った。(『礼記』礼器疏所引)
 鄭志荅炅模云「為記注時就盧君、先師亦然。後乃得毛公傳記古書義又且然記注已行、不復改之。」(『毛詩』國風燕燕疏、『礼記』坊記疏所引)
 『鄭志』で鄭玄は炅模に答えて「『礼記』注を作った時は盧君に就き、また先師もそうであった。その後にようやく『毛詩』を得て、これは由来の古い書であり意味も適切であったが、『礼記』注は既に広まっていたから、これを再度改められなかった」と言った。

 ここに「盧植に就き」という記録があり、この盧植が『礼記解詁』という注釈書を著していることから、かつては「鄭玄は盧植の『礼記解詁』を用いて自分の注釈を作った」という説がありました。しかし、近年の研究で、盧植の『礼記』テキストと鄭玄のそれが一致しない場合があること、またその注釈内容の差異も大きいことが指摘されています。
 一つ目の文章で、鄭玄は『礼記』に注した時のテキストは「依循舊本(旧来の本に従った)」としか述べていませんから、盧植の『礼記解詁』を用いたわけではないのでしょう。

 では、「就盧植」そして「先師亦然」というのは、どういう意味なのでしょうか。吉川幸次郎氏は以下のように述べています。

 「為記注時」礼記の注を書いた折には、「就盧君」盧植の意見を叩いた、「先師亦然」先師馬融も盧君と同意見であった、というのである。「就」という言葉は、私にもよく分からないが、恐らく意見を叩くという意味であろう。なお「就執」の「執」の字は、ある本にはあり、ある本にはない。ない方がいいのであろう。
 さて問題は、鄭玄の言葉の本来意味するところに従えば、鄭玄はまず、友人盧植の意見を叩いたのであり、師匠馬融の意見は第二次的なものとして参酌したのである。つまり盧植に対する態度と、馬融に対する態度の間には、ある開きがあったのである。少なくともこの条に関する限り、そうなる。なぜそうした態度を鄭玄が取ったか、それは分からぬ。しかしとにかくそうした態度をとったという「事項」の存在を、この条は示しているのである。(吉川幸次郎「翻訳の倫理」、『支那について』秋田屋、1946、p.179-180)

 「意見を叩く」とは、意見を聞くという意味。まとめると、「鄭玄が『礼記』注を書いたとき、まず盧植の意見を聞き、先師の馬融も盧植と同意見であった」という翻訳になります。

 ここで吉川氏が、鄭玄の盧植に対する態度と馬融に対する態度の間に差があると指摘するのは興味深いところです。前篇・第二章で、馬融門下では弟子が弟子に学問を教授するのが普通であったという話が出てきました。この文章は、こういった状況(弟子同士の鄭玄が盧植に教えを乞うこと)を指すのかもしれません。

 ただ、「先師」を、鄭玄が『礼記』を受けた張恭祖とする説もあるようで、このあたりは難しいところです。

 さて、結局のところ、鄭玄が用いた『礼記』のテキストは、『小戴礼記』系統であることは確かですが、それ以上のことは分かりません。張恭祖に『礼記』を受けた話があるのも確かですから、テキストとしてはこれを引き継いでいたのかもしれません。

本はなぜ滅びるのか

 鄭玄は多数の著作を残しましたが、その多くが現在は滅びてしまい、見ることができません。なぜ、鄭玄の本が消えてしまったのでしょうか。というより、逆にどのようにして、二千年近く前の本が現代まで伝えられるのでしょうか

ここから先は

7,190字

¥ 100

ぜひご支援お願いいたします。いただいたサポートは、図書購入費などに使用させていただきます。