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後篇・第六章「鄭学の受容と批判」

王粛の登場

 鄭玄より少し後の時代、鄭説の反駁者として有名なのが魏の王粛(一九五~二五六)です。王粛に関する研究も非常に多く、鄭玄と王粛の学説比較はもちろん、王粛が西晋の皇帝である司馬氏と親戚関係にあることから、政治上の立場と王粛の学説を結び付ける議論も盛んです。
 王粛は、『孔子家語』という本の偽作者に認定されたこともあって常にマイナスイメージがついて回り、「何が何でも鄭玄に反駁することを好んだ偏屈な学者」という偏見を持たれたこともありました。

 「鄭玄」の説明が本書の目的ではなかったのか、なぜその批判を見なければならないのかと思われそうですが、王粛の批判は鄭説のクリティカルな部分を衝いており、鄭説の理解の上でも外せない事柄ですから、その学説はぜひ見ておくべきものです。まず、王粛自身の言葉から、彼の鄭玄批判の意図を把握することから始めましょう。

 鄭氏學行五十載矣。自肅成童、始志於學、而學鄭氏學矣。然尋文責實、考其上下、義理不安違錯者多。是以奪而易之。然世不明其欵情、而謂其苟駁前師、以見異於人。乃慨然曰「豈好難哉、予不得已也。聖人之門、方壅不通、孔氏之路、枳棘充焉。豈得不開而辟之哉。若無由之者、亦非予之罪也。」是以撰禮經、申明其義、及朝論制度、皆據所見而言。(『孔子家語』序)
 鄭玄の学問は広まって五十年になる。わたくし王粛も、幼い頃に学問を志した時には、鄭玄の学問を学んだ。しかし、経文を探求し事実を求め、文章の前後の繋がりを考えると、意味が落ち着かず、誤っている箇所が多かった。そこで私は鄭説を取り替えたのだ。しかし、世間は私の望みが分からず、私がただ先師に反対して他人と異なることを示したいだけだと考えている。私はこれに憤慨して「どうして私が論難を好むというのか。私は止むを得ずに論難しているのだ。聖人の門は、いま塞がっていて通じず、孔氏の道には、棘が満ちている。どうしてこれを開拓しようとしないのか。これによって学ばないものは、私の罪ではない」と言った。そこで私は礼経を撰じ、その義を明らかにし、朝廷で制度を論じるに当たっては、全てに根拠があるのだ。

 魏の明帝の時に礼制についての議論が起こりましたが、ここで鄭玄説を斥けるべきと主張したのが王粛でした。次に、王粛の学問の特徴を端的に表した記述を見ておきます。

 初肅善賈馬之學、而不好鄭氏、采會同異、為尚書、詩、論語、三禮、左氏解、及撰定父朗所作易傳、皆列於學官。其所論駮朝廷典制、郊祀、宗廟、喪紀、輕重、凡百餘篇。時樂安孫叔然、受學鄭玄之門、人稱東州大儒。徵為祕書監、不就。肅集聖證論以譏短玄、叔然駮而釋之、及作周易、春秋例、毛詩、禮記、春秋三傳、國語、爾雅諸注、又注書十餘篇。(『三國志』魏書、王粛伝)
 かつて、王粛は賈逵・馬融の学問に親しみ、鄭玄の学問は好まなかった。異同を集めて、『尚書』『詩』『論語』『三礼』『左氏伝』の解釈を作り、父の王朗が作った『易伝』を編集し、いずれも学官に列せられた。王粛が論じた内容は、朝廷の典制、郊祀、宗廟、葬儀、財政といった鄭説に反論し、全部で百篇以上あった。その頃、樂安の孫叔然(孫炎)という鄭玄の門下に学んだ者がいて、人はみなこれを東州の大儒であると称していた。彼は秘書監として召し出されたが応じなかった。王粛が『聖證論』を作って鄭玄を批判すると、叔然はこれに反駁し、『周易』『春秋例』『毛詩』『礼記』『春秋三伝』『国語』『爾雅』の注釈を作り、更に『書』に注し十数篇を作った。

 冒頭の、王粛は「賈逵・馬融の学問」に接近し、「鄭玄の学問」には距離を置いたという記述は非常に重要です。実は、過去の経学研究の中には、「賈逵・馬融・鄭玄ら後漢古文学派」とこれに反対する「王粛」という構図で捉える研究も多くありました。
 しかし、上の記述のように、むしろ「賈逵・馬融・王粛ら古文学派」に対する「鄭玄」という構図で捉えて学説の相違を見た方がよいのではないか、というように近年の研究では考えられてきています。この辺りはまだまだ研究が進展している段階といえますが、ここまで読み進めて来られた読者の皆様であれば、どうやら鄭玄の学説は非常に特殊なものらしい、ということはイメージが湧くのではないでしょうか。

王粛の鄭玄批判

 では、具体的に鄭説をどのように批判したのか、見ていくことにしましょう。鄭説の範囲が広い分、王粛の批判も多岐にわたりますが、ここでは第五章で取り上げた鄭説に対する批判を見ることにします。

 王粛の批判として最もよく取り上げられるのは、鄭玄の感生帝説を批判する一段です。

 王肅引馬融曰「帝嚳有四妃、上妃姜嫄生后稷、次妃簡狄生契、次妃陳鋒生帝堯、次妃娵訾生帝摯、摯最長、次堯、次契。妃三人皆已生子、上妃姜嫄未有子、故禋祀求子。上帝大安其祭祀而與之子。任身之月、帝嚳崩、摯即位而崩、帝堯即位。帝嚳崩後十月而后稷生。蓋遺腹子也。雖為天所安、然寡居而生子、為衆所疑、不可申説。姜嫄知后稷之神奇、必不可害、故欲棄之、以著其神、因以自明。堯亦知其然、故聽姜嫄棄之」。肅以融言為然。又其奏云「稷契之興、自以積德累功於民事、不以大迹與燕卵也。且不夫而育、乃載籍之所以為妖、宗周之所喪滅。」(『毛詩』大雅生民疏)
 王粛は馬融説の「帝嚳には四人の妃がいて、上妃の姜嫄が后稷を産み、次妃の簡狄が契を産み、次妃の陳鋒が帝堯を産み、次妃の娵訾が帝摯を産んだ。摯が最も年長で、次が堯、次が契である。三人の妃は先に子を産んだが、上妃の姜嫄だけ子がおらず、禋祀(子を求める祭祀)をして子を求めた。上帝(天)はその祭祀をよしとして、子を与えた。身籠っている時に、帝嚳が崩じ、摯が即位して崩じ、帝堯が即位した。帝嚳が崩じて十カ月後に后稷が生まれた。これは遺腹の子ということだ。天によしとされたものではあるが、寡婦で子を授かったので、人々に疑われることになり、説明できなかった。姜嫄は后稷が神奇であり、必ず害を受けないと知っていたので、これを捨てることでその神性を顕現させ、后稷の出自を明らかにしようと考えた。堯はそのことを知っていたから、姜嫄がこれを捨てるのを許した」を引用し、王粛はこの馬融説を正しいとした。また王粛は奏上して「后稷・契が世に興隆したのは、民に対して徳を積み功績を重ねたからであって、大迹(大神の足跡、后稷の感生説)や燕卵(ツバメの卵、契の感生説)のおかげではない。そのうえ、夫なしに妊娠するなどという話は、経籍が怪しいものとみなし、周が抹消したことである」と言った。

 王粛は、后稷は帝嚳とその正妃の姜嫄の夫婦の子供であると考え、神秘的な感生説を否定します。姜嫄が天に祭祀を行い、この願いを天が聞き遂げて后稷を宿したのですから、后稷が神の祝福を受けた特別な子供であることは認めているのですが、あくまで父は人間の嚳であるとするのです。また、これが馬融の説に基づいていることに注意してください。

 王粛の批判は、我々の目から見てもごく常識的なものです。ただ、鄭説では、郊・明堂で祀る太微五帝は、王朝の始祖を感生させたがゆえに祭祀の対象として重視されていました。この感生帝説を否定するということは、太微五帝を祭祀対象として見ること自体を否定する、ということになります。では、王粛は、郊・明堂は何を祀る場所であると考えていたのでしょうか。

 これを考える上で、みなさまに少し考えていただきたいことがあります。「昊天上帝」は儒教の最高神に当たり、その祭祀は最も重要であるはずです。しかし、先ほど見たように、鄭玄が昊天上帝を祀るとした「圜丘の祭祀」は経書中にほとんど見当たりません。鄭玄が「圜丘の祭祀」に関係すると認定した記述を集めても、大した量にならず、復元さえままならないほどです。

 経書は儒教の経典であるのに、儒教の最高神の祭祀の記述が経書の中にこんなに僅かしかないなんてこと、考えられるでしょうか? こうなると、当然、この鄭説に対する疑念が生じてきます。そもそも、経文に一度しか出てこない「圜丘の祭祀」なんて、本当に存在したのでしょうか。

 経学の学説を追いかけてみると、この圜丘と郊の区別を提唱したのは鄭玄が最初で、それ以前は両者は区分されるものではありませんでした。鄭玄以前は、これまで影に隠れていた「郊」こそが最重要の天祭で、ここに昊天上帝が祀られるのであると考えられていたのです。緯書にある以上は太微五帝への信仰も古くからあったのでしょうが、原則としては昊天上帝が唯一の天帝で、これが郊で祀る対象であり、儒教の信仰対象として最も重要なものでした。

 「郊」という言葉であれば、経書に何回も出てきます。前章で紹介したように、『礼記』に「郊特牲」という専門の一篇が設けられているほどです。実際、漢代を通して、国家が天帝を祀る場所としては「郊」が一つ設けられただけであり、郊と別に圜丘が設けられたのは、鄭説を採用した魏の明帝の時が初めてです。
 また、経書中に現れる「天」や「上帝」という言葉も、漠然とした天神信仰を表すもので、基本は「昊天上帝」を指すと考えてよいものです。先ほど鄭玄は経書のどこに「天」や「上帝」という言葉が現れるかによって、それぞれ意味が異なると考えて細かく読み分けを施していましたが、どれも「郊」と「天」を結びつけてしまえば、大体は解決する話なのです。

 この「大体は解決する」というのが肝であり、逆に言えば、全てを「郊―天帝」として解決しようとすると、細かな不統一は残るということでもあります。この経書の間の細かな矛盾を几帳面に細かく区別し、解決しようとしたのが鄭玄である、と言えるわけです。

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