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終戦前後の中国古典学者

 最近、太平洋戦争真っ只中の時期に、中国古典を研究する学者たちがどのような発言をしているのか、妙に気になってきました。日本と中国が戦争状態に突入する中で、中国古典を研究する学者がどのような態度を取ったのかということは、現代に同じく中国古典の研究を志す私も知っておかなければならないと考えたからです。

 中国史・東洋史の学者に関する動きであれば、私でも聞いたことのある話がいくつかあります。例えば、白鳥庫吉は「満鮮地理歴史調査部」を立ち上げて満州や朝鮮に関する歴史・地理に関する研究を進めましたが、これは当時の国策(満州・朝鮮の支配)にコミットする目的がありました。
 白鳥庫吉の学問については、吉澤誠一郎氏の「白鳥庫吉と日本における東洋学の形成」という講義がオンラインで公開されていますので、ぜひご覧ください。
 また、「満鮮地理歴史調査部」でどのような研究が行われたのか、また参加した研究者が「満州史」「朝鮮史」をどのような枠組みで捉えていたのかという点については、オンライン上で公開されている桜沢亜伊「「満鮮史観」の再検討--「満鮮歴史地理調査部」と稲葉岩吉を中心として」に整理されています。

 ただ、今回の記事では、こういった比較的直接的な関与について扱うのではなく、中国古典学者が終戦前後に書いた文章をいくつか読んでみよう、というそれだけの試みです。

 この記事では、五つの文章を紹介します。一応、前半の三つの文章は、戦中の中国古典学者の典型として見てよいかと思います。後半の二つの文章は、戦時中に苦労して研究を進めた学者が振り返って書いた文章ですから、少し毛色が違います。どちらも戦争という悲惨な現実のある一面を示したものとして、読んでみてください。

吉川幸次郎

 まず、中国文学研究の大家である吉川幸次郎の「国語について」(『支那について』秋田屋、1946所収)を取り上げます。1940年の文章です。

 いかに今の国語には無用な漢語が氾濫しているか、今さら指摘するまでもあるまい。…漢語を全く国語の中から駆逐せよというのではない。…私は以上のような理由から、漢語は必要であると考える。しかし只今の漢語の使用は、はるかに必要の限度を越えていることを、より強く感じる。…私は哲学のことをよく知らぬけれども、「必然性」「偶然性」ということを、「たしからしさ」「飛んでもなさ」といってはいけないのだろうか。

 吉川幸次郎は、中国由来の言葉である「漢語」を、出来る限り減らすことを提案しています。上では省略しましたが、その理由として、日本語は助詞を使用するため漢語よりはっきり意味を示せることなどを挙げています。同時に、日本語が外国の言葉を取り込みやすい性質を持っていることを指摘し、警鐘を鳴らしています。
 同時に、文化上の問題から漢語を完全になくすことは不可能であることも述べてはいますが、全体の印象としては「日本語は中国語より優れた言語ですから、漢語の使用頻度を減らしましょう」と言っているのと変わりません。文章の末尾は、以下のように結ばれています。

 まず提唱されるべきは、漢語の制限である。今日もっとも漢語の少ない文章を書いているのは、小説家である。小説の振興は、他の点からも必要であろうが、国語をよくするためにも必要である。…またラジオこそは、口語の本じめである。もっともっと漢語をへらすように努力されたい。

 吉川氏の一連の議論は、感情に任せたものではなく、冷静に、また「学術的」に書かれたものですが、だからこそタチが悪い、と現代の我々としては言わざるを得ないところもあります。

 吉川幸次郎『支那について』は出版されたのは1946年ですが、内容はそれ以前の吉川氏の新聞連載などを集めたものですので、どれも戦前に書かれたものです。上のような内容の文章がある一方で、日本人学者の翻訳の問題を論じたものなど、非常に読み応えがあるものもあります。

石濱純太郎

 続いて、敦煌文書の研究者として著名な石濱純太郎の「支那研究の情態」(『支那學論考』全国書房、1943)を読んでみましょう。講演をもとにした文章です。

 何分にも時局がだんだん進んで参りまして、愈々蒋介石が頭を下げるのかと待って居りましたが、此処に欧州の大騒乱が起って延いてはアフリカに及び、アメリカは参戦するせんの有様となり、今度は東亜へも飛んで援蒋国が我々をも其の中へ引き込もうというので大変なことになりました。支那事変は汪精衛諸公が東亜新秩序への参加、正統国民政府の樹立で順序立って来たのに、援蒋国家のために阻碍されるのは天下の不幸でありますが、致し方ありません。苦しい時には何を仕出かすか分かりませんから、我々は確り新体制を組んで、不動の態度でいかねばなりません。

 「援蒋国」「援蒋国家」とは、「蒋介石を援助する国家」のこと。いわゆる「援蒋ルート」は1940年前後に日本軍によって概ね遮断されることになります。また、「汪精衛」とは南京に新国民政府を立てた「汪兆銘」のこと。

 それでも支那事変はどうやら何ほど偽政府の蔣さんがもがきましても、もう建設時代であります。我国といたしましては何としても後の建設宣撫の研究時代であります。いつも絶えた事のない匪賊まがいの偽軍などは、我が忠勇無双の軍隊のお陰で何も出来ません。そこで愈々安民の経世策の必要が迫って居ります。勿論我が官民共に早くからいろいろ対策がある事でありましょうから、我々は安んじて銃後の強化により之に応ぜられる様準備しておけばいいのでありますが、何分にも支那は広く久しい国ですから、そう手っ取り早くは参り難いでしょう。

 「いつも絶えた事のない匪賊まがいの偽軍などは、我が忠勇無双の軍隊のお陰で何も出来ません」とは、いかにも戦時中という文章。軍事方面は安心して任せて、その背後で中国の研究活動を進めればよい、という論調です。

 石濱氏は、この文章の続きで、日本の中国研究が世界的に見ていかに優れた結果を出してきたか力説します。

 なお、1941年、この年が皇暦で2600年に当たるということで、京都帝國大學文學部史學科から『紀元二千六百年記念史學論文集』という論文集が作られました。羽田亨、那波利貞、宮崎市定ら錚々たる顔ぶれに並んで、石濱氏の論文も収められています。

林秀一

 続いて、『孝経』鄭注と『孝経述議』研究の第一人者として知られる林秀一「孝経鄭注義疏之研究跋」(『孝経学論集』明治書院、1976)を見てみましょう。これは昭和二十年八月九日に書かれた文章です。

 今や、戦局は日に日に重大化し、我が本土も戦場と化し、皇国の危機は目睫の間に迫った。戦時下の青年教育に携わる者として、斯かる研究に従事することが果たして国家に忠なる所以か、此の悩みは最近の筆者を最も苦しめた問題である。勿論、自分とても祖国を憂うる一国民として、いざ鎌倉という際は、戈を執って戦うだけの覚悟はある。然し、自分の生ある間に、少なくとも孝経の研究だけは、或る程度まとめておきたいという強い衝動に駆られる。

 「斯かる研究に従事することが果たして国家に忠なる所以か、此の悩みは最近の筆者を最も苦しめた問題である」というのは、当時の古典研究者の切実な思いだったのでしょう。そこから、吉川氏のように新聞で連載をしたり、石濱氏のように講演をしたりする学者が現れてくるのだと思います。

 この文章を読むと、六日後に終戦を迎えることになろうとは、当時の林氏は思いもしなかったことがよく分かります。しかし、「自分の生ある間に、少なくとも孝経の研究だけは、或る程度まとめておきたいという強い衝動に駆られる」という言葉からは、戦争がいよいよ悲惨さを増し、切迫した生命の危機を覚えているさまが窺えます。

 まして多年住み慣れた岡山の地も、去る六月二十九日夜、一瞬にして焦土と化した。十八年職を奉じた我が六高も遂に姿を消した。我が家は僥い助かったが、自分にとって掛け替えのない母は、空襲直後の心身の疲労のため悪疫の襲う所となり、七月九日忽焉としてみまかった。助かるべき生命をただ戦災直後なるが故に、手当が行き届かなかったのだ。然しこれが激しい戦いの現実なのだ。我等はここで屈してはならない。否、断じて戦わねばならぬ。今こそ旺盛なる敵愾心の沸々とたぎるのを覚える。本書の印刷のそうした苦しい戦いのさ中、激しい勤めの傍ら決行した。インキもない。原紙もない。印刷機も焼けた。あちらで一枚、こちらで一枚、漸く刷り終えて、母の七々の忌日に霊前に供えて、生前の母の辛労に対する唯一の報恩とすると共に、併せて多年ご指導を辱うした諸先生・諸先輩に一本を呈して感想の資となす次第である。

 岡山大空襲は、昭和二十年の六月二十九日の深夜に襲い、市内は壊滅状態になりました。戦争による母の死の傍ら、「我等はここで屈してはならない。否、断じて戦わねばならぬ。今こそ旺盛なる敵愾心の沸々とたぎるのを覚える」と、かえって強固な意志が生まれ、その力をもって研究に打ち込むさまには、不思議なものを覚えます。

 つまり、「旺盛なる敵愾心」が研究の推進力となり、苦しい戦いの真っ最中に純粋な古典研究である『孝経学論集』を上梓することに成功したわけです。文章の末尾は、以下のように結ばれています。

 尚お筆者は生ある限り孝経の研究を継続する決意である。然し斯かる時局下に在っては、何人も明日の生命を保証することは出来ない。万一の際、筆者の精神を継承してくれるであろう人々の参考の資にもと、自分の今迄発表した拙い孝経関係の論文を一括しておく。

 命の危機にあって、せめて自分の研究だけは引き継がれてほしい、という強烈な意志が垣間見えます。いつか、この時に出版された「孝経鄭注義疏之研究」そのものを見てみたいものです。(どうやら、東京大学東洋文化研究所図書館の倉石文庫に収められている本がこれのようです。)

川原寿市

 十三経の中でも屈指の難読とされる『儀礼』について、初めて作られた全面的な解説書が川原寿市の『儀礼釈攷』(朋友書店、1973)です。この本の自序は戦後に書かれたものですが、戦中の状況がよく書かれていますので、一緒に読んでみましょう。

 儀礼釈攷の筆を起したのは、昭和十六年九月立命館大学予科教授を辞してからのことである。立命館を辞めたからといって、どこに行こうという目あてがあったわけでもなく、辞表を出したその日から明日の生活を考えねばならなかったが、節を枉げては一日としてその耺に晏如たりえない潔癖さと愚かさは、ひたむきに浪々の身となった。不安をつゝみきれない妻子を顧みて「生きる道は一つではない。」と腕をさすってみせた。それは必ずしも虚勢のことからとのみは今でも思っていない。……
 思えば立命館を辞めてから今日まで足かけ七年、支那事変から第二次世界大戦へ、世界をあげて動乱のさ中におちていった時代である。第二次近衛内閣の総辞職、そして運命の東条内閣の成立、真珠湾攻撃、米英に対する宣戦布告、マレー沖海戦、あれよあれよとみるまに、驚天動地の舞台がめぐり、勇ましい軍艦マーチを幾たびか聞いたことであった!しかし剣は折れた。矢はつきた。満身創痍、一敗血にまみれ、ミズリー艦上に無条件降伏を誓うに至った今日まで、どの一刻もどの一瞬も、書斎にじっととじこもっていられるような、生やさしい時代ではなかった。曠古の戦時体制下におしまくられ、生活は日ごとに嶮しさを加えていた。この時の苦しい生活の支えはひとり妻の肩にのしかかっていた。妻はお守の札張りから仕立てもの、時に家政婦、時に買出し、日に夜をついで、よくたえよく働いた。

 「曠古」とは、空前絶後の、未曽有の、といった意味。「どの一刻もどの一瞬も、書斎にじっととじこもっていられるような、生やさしい時代ではなかった」という状況下で、在野で研究を進めることの困難さは想像を絶します。

 『儀礼釈攷』は1941年に執筆を始め、1948年に完成。ガリ版で第一冊を刷り上げたのが1955年。最初は奥様が、その後は川原氏自らがガリ版を切っていたようです。年号を見ただけでも、執筆を続けることにいかに困難があったかよく分かります。

 以下は、その後奥様が病に倒れた時の一段。

 妻はその後また大病をわずらった。最初は風邪でもあろうぐらいに思っていたが、病勢は悪化するばかり、かかりつけの医者はチブスの疑いがあるという。そのうちに容態が急変してきたので、名医とうわさされていた安井先生の往診を請うたところ、ワイル氏病と断定―もう顔には死相が浮かんでいるようにみえた。「自分の許へ嫁いで以来、労苦のかぎりを尽くし、いつ楽しむ時があっただろう。」今でもボロボロの寝巻きにくるまって、昏々とねむりつづけている妻、枯木のように、しなび果てた顔をのぞきこんでいると、とどめなく涙がこみあげてきた。安井先生は血精注射をうちこんだ、葡萄糖も注射してくれた。幾本かの強心剤も注射してくれた。袖の下をたんまり使わなければ、一本の注射もうってもらえないのが常識とされていた時に、これはまた何としたことだろう!わたくしの瞳に、先生が神の姿として焼きつけられた。

 本書はガリ版に刷られたものであり、川原氏の肉筆を通して上の文章を読むと、氏の感情がそのまま伝わってくるようで、感激もひとしおです。

平岡武夫

 最後に、平岡武夫『経書の成立』(創文社、1983)の「初版刊行の記」を読んでみます。戦火で原稿が文字通り「焼失」し、何度も出版が潰えながらも上梓された書籍です。これも、戦前に書かれた文章というわけではありませんが、悲惨な現実を前にした古典研究の力強さを感じることができるので取り上げました。

 まず、大阪が空襲に遭ったことで印刷所が罹災してした際、平岡氏が印刷所を訪ねる一段。

 昭和二十年三月十三日。この日の夜半から十四日の払暁にかけて、由緒なつかしい浪華の町々のほとんどが灰燼に帰した。全国書房も浜田印刷所もその災厄から逃れることができなかった。その時、本書はすでに大半の再校を了え、図版や木活字の作製もほぼ完了していたが、そのすべてがやはり烏有に帰してしまった。これは私の怖れていたことでもあるが、また覚悟していたことでもあった。私が田中氏と面会したのは、その翌十五日、余燼なお収まらぬ日の午後、場所は……仮事務所であった。私の顔を見るなり、同氏の口をついて出たものは、原稿を焼いたことに対する侘び言であった。これは私を面喰わせた。まさに逆慰問を受けた形であった。私は焦土の真っ只中を歩いて此処に来たのである。被害は想像していたよりも遥かに広汎であり、深刻であった。田中氏が罹災しているに違いないことは、大阪に到着した刹那に、すぐ念頭に閃いたのである。現に私が初めに訪ねて行ったもとの事務所のあたりには、おびただしい紙の堆積が真っ赤な火になって、しかも一枚々々、数えれば数えられるような形で積み重なっていた。その光景は、いまなお眼底に消え難い印象を刻みつけている。私の心は深い感慨に沈んだ。そしてこの人を慰める言葉に、むしろ思い窮していたのである。

 「おびただしい紙の堆積が真っ赤な火になって、しかも一枚々々、数えれば数えられるような形で積み重なっていた」…眼前で原稿が燃えてゆく空襲後のショッキングな光景、これもまた戦争の現実なのです。

 二人は膝を交えて、どれほどの時間を話し合ったことであろうか。田中氏は率直に、同氏が蒙った損害の大きいことを認めた。虎の子のようにしていたものを、むざむざ灰にしてしまった紙を惜しがった。同志的な印刷所を失った痛手も痛嘆した。しかしこれらの言葉が語られるのは、同氏が既に充分に落着きを取り戻している証拠である。私はむしろ逞しいものを覚えるのであった。……刊行を予定していた書籍で、既に製本も完了して発送するばかりになっていたものも、二三に止まらないと言う。完成まぎわにあった書物の名も挙げられた。そして田中氏は、それらの書物の一つ一つに、自分が特に力を入れた箇所、即ちこの本では紙に、印刷に、あの本では図版に、装幀にと、それぞれに無限の愛着を洩らすのであった。それを聞く私には、この人の声のうちに、痛惜の悲しみが底にあるものの、それを超えて、なにやら力強いよろこびの調べの漂うのが感じられた。私は、心ひそかに、書籍出版者の冥加を思うのであった。

 失った本を惜しむ田中氏の言葉に、出版業者の本懐を思います。

 以下は、紆余曲折を得て再出版が近づき、燃えた部分の原稿を補う一段。一度焼失した後、新たに推敲を加え、内容もかなり変化しているようです。

 私は一字を改める毎に、意気いよいよ軒昂、再起復興に努めることの限りない喜びを覚えた。そして同時に、しみじみと文化の力強さを知った。文化事業にたずさわる者の幸福を身に沁みて味わうのであった。書物になるまでに、この原稿が再び焼失することがないとも限らない。しかしそれは、あらためて推敲の機会を与え、心はずむ一層の精進を約束するだけである。何を憂え、何を恐れることがあろう。

 最後の言葉、「書物になるまでに、この原稿が再び焼失することがないとも限らない。しかしそれは、あらためて推敲の機会を与え、心はずむ一層の精進を約束するだけである。何を憂え、何を恐れることがあろう」は、私が一生忘れられない言葉の一つです。

 悲惨な現実を前にして、学者はこれだけ力強く研究に邁進していたわけです。その積み重ねの先に我々がいることに、改めて気づかされます。

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