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鄭玄で学ぶ中国古典

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後漢の大学者である鄭玄の一生やその学問を通して、中国史・中国古典の世界を知ることができる記事です。
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『鄭玄から学ぶ中国古典』はじめに

『鄭玄から学ぶ中国古典』はじめに

 みなさんが「中国漢代の人物」と聞いて思い出すのは、誰の名前でしょうか。前漢初代皇帝の劉邦、また『史記』の著者の司馬遷が代表選手でしょうか。世界史を習った記憶が残っていれば、『塩鉄論』の桑公羊や、儒学者の董仲舒、『漢書』の班固といった名前も浮かぶかもしれません。

 このシリーズ記事で取り上げるのは、後漢末期の学者の「鄭玄」という人です。鄭玄は「じょうげん」とも「ていげん」とも読みます。鄭玄は漢代

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『鄭玄から学ぶ中国古典』もくじ

『鄭玄から学ぶ中国古典』もくじ

はじめに参考文献
前篇 鄭玄の生涯第一章 生い立ちと学問の目覚め
 イントロダクション/鄭玄の生家/若かりし頃の鄭玄/学業に打ち込む

第二章 盧植と馬融
 友・盧植の存在/師・馬融との出会いと別れ

第三章 学塾での生活
 久々の帰郷/党錮の禁と鄭玄/黄巾の乱勃発、流浪生活へ/学塾での指導

第四章 激動の時代
 群雄の跋扈/一人息子への願い/鄭玄の最期

後篇 鄭玄の学問第一章 経学という営み

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『鄭玄から学ぶ中国古典』参考文献

『鄭玄から学ぶ中国古典』参考文献

 『鄭玄から学ぶ中国古典』の一連の記事を執筆するに当たって、参考にした研究の一覧をここに載せておきます。原典資料については本文で触れていますので、ここでは省略いたします。

 これらの研究なしには、私は何も書き進めることができませんでした。深く感謝申し上げます。

前篇 鄭玄の生涯・全体の歴史記述について
 狩野直喜『魏晋学術考』(筑摩書房、一九六八)、宮崎市定『中国史』(岩波書店、一九七七)、川

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前篇・第一章「生い立ちと学問の目覚め」

前篇・第一章「生い立ちと学問の目覚め」

イントロダクション 鄭玄(じょうげん・ていげん、一二七~二〇〇)は、その功績のわりに、現在に伝わる伝記資料の量が少ない印象を受けます。鄭玄の生涯を描写する上での最も重要な資料は、鄭玄の死の二百年以上後に作られた、范曄(はんよう、三九八~四四五)の『後漢書』に収められている鄭玄の個人の伝記(列伝)です。
 鄭玄から范曄まで二百年の隔たりがあるとはいえ、范曄は当時既に存在していた他の数種の歴史書を参考

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前篇・第二章「盧植と馬融」

前篇・第二章「盧植と馬融」

友・盧植の存在 ここで、寄り道をして盧植という人を見ておきましょう。というのも、盧植と鄭玄は同年代の学者で対照的な存在であり、鄭玄の理解に当たって盧植の生涯は大きな示唆を与えてくれるからです。どちらかといえば、盧植の方が後漢当時の典型的な学者像を示していますから、後漢という時代を考える上でも理解しておくべき人物です。

 盧植は、涿郡の涿(河北省涿州市:Googleマップ)の出身で、生年ははっきり

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前篇・第三章「学塾での生活」

前篇・第三章「学塾での生活」

久々の帰郷 長い修学時代を経て、四十歳になったとき(延熹九年、一六六年)、鄭玄は故郷の高密(Googleマップ)に戻りました。郷里に戻った鄭玄は、弟子をとって学問の指導に当たります。ここに開かれた鄭玄の私塾は、二世紀の後半の二十五年間にわたって栄えました。後漢の勢力が落ち、太学(都の公立学校)も荒廃していた当時、太学に代わる地方の私塾として大規模なものがいくつかありますが、鄭玄学塾もその一つです。

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前篇・第四章「激動の時代」

前篇・第四章「激動の時代」

群雄の跋扈 鄭玄の生涯を追いかけているうちに、董卓・袁紹・曹操・劉備といった群雄が跋扈する、後漢のクライマックスに差し掛かってきました。

 少し遡って、中平六年(一八九年)に霊帝が死に、外戚の何進が少帝を擁立しましたが、何進は宦官の反発に遭って死に追い込まれます。これによって宦官が権力を取り戻すかに思えましたが、すぐさま袁紹が宦官二千人余りを殺害します。この瞬間、外戚と宦官の両勢力が消えた空白が

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後篇・第一章「経学という営み」

後篇・第一章「経学という営み」

イントロダクション 前篇で、鄭玄は現存する伝記資料が少ないと述べましたが、鄭玄自身の著作や文章であれば、後漢の人としてはかなり多く現存しています。これらを読解することに出発し、前篇で述べた彼の生涯や社会背景を踏まえながら、鄭玄の学問の実態に迫っていきましょう。

 まえがきで述べたように、鄭玄の学問は「難解」とか「繁雑」とか「膨大」とかいう形容詞がついて回るものです。これは決して我々現代人だけが得

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後篇・第二章「鄭玄の著作」

後篇・第二章「鄭玄の著作」

著作一覧 前章で、鄭玄の注釈の特徴を見るための背景は把握することができました。ここでわれわれは、鄭玄研究のスタート地点に立ったと言えるわけです。ではまず、鄭玄研究の基礎となる、鄭玄の著作の一覧を見ておきましょう。鄭玄の思考を追っている過程で何が何だか分からなくなったとしても、この中のどこかに、きっと答えが眠っているはずです。

・『周易』注(佚書)
・『尚書』注(佚書)
・『尚書大伝』注(佚書)

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後篇・第三章「鄭玄の経書解釈法」

後篇・第三章「鄭玄の経書解釈法」

六藝論―鄭玄の経書観 鄭玄の経書観は、初期の著作である『六藝論』に整理されており、ここに彼の学問全体を貫く構想が示されています。「六藝」とは、易、詩、書、礼、楽、春秋の六種の経書を指します。このうち『楽』は散佚してしまいましたが、「六藝」といえばこの六種の経書を指すと考えてください。なお、「藝」は「芸」の旧字体ですが、中国では「芸」は別字になりますので、「藝」の字を使っておきます。

 さて、ここ

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後篇・第四章「鄭玄の「礼」研究」

後篇・第四章「鄭玄の「礼」研究」

周代の礼制を復元せよ ここまで、鄭玄の経学における基礎作業、理念、思考法を見てきました。以上を踏まえて、彼が具体的にどのような成果を出したのか、本章で見ていきましょう。

 鄭玄の学問成果は、何といっても「礼学」に発揮されました。「礼」とは古代中国を語る上で最も重要な概念の一つで、社会秩序を保つための政治的・社会的・倫理的な決まり事(規範・制度など)のことです。

 「礼」には、「子は父を敬うべき

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後篇・第五章「鄭説の概要」

後篇・第五章「鄭説の概要」

儒教の最高神―昊天上帝 ここまで、鄭玄の学問に焦点を当てて、基礎作業、解釈方法、その理念と実践を解説してきました。この本書の構成を見てみなさまがどうお感じになられたのか分かりませんが、実は学界で一般的に「鄭説の解説」と言われた時に想像されるメジャーどころの内容を、まだほとんど説明していません。むしろ、ここまで取り上げてきた「君子謂衆賢也」「留車・反馬の礼」「含・襚・賵・賻」「三者同制説」といった事

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後篇・第六章「鄭学の受容と批判」

後篇・第六章「鄭学の受容と批判」

王粛の登場 鄭玄より少し後の時代、鄭説の反駁者として有名なのが魏の王粛(一九五~二五六)です。王粛に関する研究も非常に多く、鄭玄と王粛の学説比較はもちろん、王粛が西晋の皇帝である司馬氏と親戚関係にあることから、政治上の立場と王粛の学説を結び付ける議論も盛んです。
 王粛は、『孔子家語』という本の偽作者に認定されたこともあって常にマイナスイメージがついて回り、「何が何でも鄭玄に反駁することを好んだ偏

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後篇・第七章「現代の視点」

後篇・第七章「現代の視点」

鄭説の意義 後の歴史の展開を見ると、第四章の終わりで述べたような矛盾は内包しながらも、鄭玄はその後長く受け継がれる体系的な礼制度の構築に成功したと言えます。これが経学においてどのような学術的役割を果たしたのかという点について、最後に考えることにいたしましょう。

 何度も述べたとおり、経書はもともとがバラバラに成立したもので、全体量も多いですから、様々な内容を含んでいます。極端に言えば、「AはBで

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