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前篇・第四章「激動の時代」

群雄の跋扈

 鄭玄の生涯を追いかけているうちに、董卓・袁紹・曹操・劉備といった群雄が跋扈する、後漢のクライマックスに差し掛かってきました。

 少し遡って、中平六年(一八九年)に霊帝が死に、外戚の何進が少帝を擁立しましたが、何進は宦官の反発に遭って死に追い込まれます。これによって宦官が権力を取り戻すかに思えましたが、すぐさま袁紹が宦官二千人余りを殺害します。この瞬間、外戚と宦官の両勢力が消えた空白が生じたことになります。この隙に付け入ったのが董卓で、彼は洛陽に入り少帝を引き下ろすと、後漢第十四代にして最後の皇帝である献帝を傀儡として即位させました。

 しかし、そこに一度逃亡した袁紹らが戻ってきて攻撃を加えると、董卓は耐えかねて、献帝を連れて長安に遷都しました。この頃、盧植が暴虐の限りを尽くした董卓に死を顧みずに少帝の廃位を止めさせるべく諫言し、危うく殺されかけます。董卓は盧植を殺した場合の影響力の高さを恐れ、踏みとどまりましたが、危機を感じた盧植は隠遁します。その後、盧植は一時袁紹の招きに応じましたが、初平三年(一九二年)、盧植は隠居先で死去しました。この後、盧植の子孫は、名門「范陽の盧氏」として代々不動の地位を築くことになります。

 このように、既に血で血を争う時代に突入しているのですが、彼ら群雄たちの間でも、鄭玄の学識は広く知れ渡っていました。例えば、董卓は趙国相として鄭玄を引き立てようとしています。ただ、これは結局失敗に終わっています。

 初平三年(一九二年)、暴虐な董卓が部下の呂布に殺されると、天下はますます混乱します。この頃、董卓から中牟(河南省鄭州市)に逃れていた朱儁という人が中心となり、関中の平定を企てたことがありました。これは、武人として功績が多く、かつては党錮の解除を主張するなど名望のあった朱儁を、徐州刺史の陶謙が立てて計画されたものです。そしてこの決起メンバーの中に、六十六歳の鄭玄も参加しています。

 長い鄭玄の生涯の中で、一応の積極的な政治参加が見られるのはここだけと言ってよいでしょう。この時のメンバーには、孔融は言うまでもなく、『漢書』の注釈や『風俗通』の著書で知られる応劭(おうしょう)、『左氏伝』の注釈で知られる服虔(ふくけん)など、学術肌の面々が揃っており、武力の専横に対する文人派の対抗といった趣きがあります。時代のあまりに危機的な状況を見て、鄭玄も決起に名を連ねたのかもしれませんし、鄭玄の庇護者である孔融・陶謙の誘いを断れなかったのかもしれません。ただ、実際にはこの決起も失敗に終わります。

 建安元年(一九六年)、七十歳になった鄭玄は、劉備のもとを離れ、ようやく故郷の高密に戻ってきました。故郷へ帰る道の途中、黄巾の乱の賊軍と遭遇したのですが、彼らは鄭玄を見るとみな拝礼し、鄭玄のいる高密の県境の中には入らないことを約束したといいます。鄭玄の名望は、既に民衆の間でも不動のものとなっていたのでした。

 この頃のダイナミックな歴史の動きについては、ここで簡単に語り切れるものではありません。金文京『三国志の世界 後漢三国時代』(講談社、二〇二〇)など多数の良書がありますので、ぜひ読んでみてください。

一人息子への願い

 鄭玄には、益恩という子供が一人いました。高密に帰り、病を得て衰弱した鄭玄は、この益恩に向けて「戒子書」(かいししょ、子を戒むるの書)をしたためます。これは老年の鄭玄による一生の回顧になっていますので、内容を少しずつ切りながら丁寧に見ていくことにしましょう。

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