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前篇・第三章「学塾での生活」

久々の帰郷

 長い修学時代を経て、四十歳になったとき(延熹九年、一六六年)、鄭玄は故郷の高密Googleマップ)に戻りました。郷里に戻った鄭玄は、弟子をとって学問の指導に当たります。ここに開かれた鄭玄の私塾は、二世紀の後半の二十五年間にわたって栄えました。後漢の勢力が落ち、太学(都の公立学校)も荒廃していた当時、太学に代わる地方の私塾として大規模なものがいくつかありますが、鄭玄学塾もその一つです。

 鄭玄の学塾は、栄えていたといっても、経済的に豊かであったというわけではありません。千人規模の弟子がおり、鄭玄はその一部と共同生活を営んでいたと考えられます。

 家貧、客耕東萊、學徒相隨已數百千人。(『後漢書』鄭玄伝)
 家が貧しかったので、東萊に畑を借りて耕し、学生で(鄭玄に)従うものは数百人から千人になっていた。

 本来は、弟子入りする側が束修(弟子入りのための金銭・食物)を師匠に納め、師匠はこれをもとに生計を立てました。しかし、後漢末期の乱世にあっては食物の確保は困難であったはずです。高密の鄭玄学塾は、東萊(山東省萊州市:Googleマップ)に共同農場を確保しており、ここから食料を得ながら学問に励んだようです。塾生は日課として生産労働を行いながら、鄭玄に学問の指導を受ける、という日々であったと考えられます。

 このほかに、有力者による外部からの援助が時々ありました。援助者として知られるのは、孔子の子孫と伝えられる孔融(一五三~二〇八)という人物です。孔融は直言居士の人で、建安七子として称される高名な文人でもありますが、のちに曹操に嫌われて処刑されます。

 孔融による学塾への援助があったのは、少し先の話になるのですが、孔融が董卓に疎まれて北海相に任じられていた中平六年(一八九年)頃と考えられます。孔融は鄭玄を深く尊敬しており、以下のような教令を出して特に鄭玄学塾を保護しました。

 國相孔融深敬於玄、屣履造門。告高密縣為玄特立一郷、曰「昔齊置士郷、越有君子軍、皆異賢之意也。鄭君好學、實懷明德。昔太史公、廷尉呉公、謁者僕射鄧公、皆漢之名臣。又南山四皓有園公、夏黃公、潛光隱耀、世嘉其高、皆悉稱公。然則公者仁德之正號、不必三事大夫也。今鄭君郷宜曰鄭公郷。昔東海于公僅有一節、猶或戒郷人侈其門閭、矧乃鄭公之德而無駟牡之路。可廣開門衢、令容高車、號為通德門。」(『後漢書』鄭玄伝)
 北海相の孔融は鄭玄を深く敬っており、(靴を引き摺るほどに)大急ぎで鄭玄の学塾にやってきた。(孔融は)高密県に鄭玄のために特別に一郷を立てることを告知した。曰く、「昔、斉の国には「士郷」があり、越の国には「君子軍」がありました。これらはいずれも賢人を特別扱いするためです。鄭玄は学問を好み、誠に清明なる徳を持っています。昔、太史公、廷尉の呉公、謁者僕射の鄧公といった人々は、みな漢の名臣でした。また、南山四皓(有名な四人の隠士)には園公と夏黄公がいて、輝かしい徳を隠し持っていました。世はこの四人の高潔さを評価し、みな「公」と称したのです。そうであれば、「公」というのは仁徳のある人の正しい呼び名であって、三公(国の官僚のトップ)に限って使うわけではないのです。そこで、いま鄭玄の郷を「鄭公郷」と名付けましょう。昔、東海の于公はわずかな節度があっただけ(裁判の判決に秀でていた)でしたが、それでも郷人に戒めて町の入り口の門を高くしました。いわんや鄭公の徳であれば、駟牡(四匹の馬を用いる大きな車)がないわけにはいきません。門の前の道路を広げ、立派な車が通れるようにし、「通徳門」と名付けましょう」と。(『後漢書』鄭玄伝)

 この教令が出されたのは、鄭玄学塾が成立してから二十年ほどの時を経た頃です。徐々に塾生の数は増え、学塾一帯は塾生によって形成される学生街の様相を呈していたと考えられます。そこで、孔融の援助により、この街を支える土木工事や学舎の建設が行われたようです。孔融の鄭玄への尊敬は非常に厚いものがあったらしく、完成時には工事関係者の労をねぎらう教令を再度発しているほか、鄭玄を財務官である計掾に任命しています。これは実際に鄭玄が仕官したというより、棒禄を支給するための方便であったのでしょう。

 こうして協力者を得ながら郷里で学塾の指導に当たった鄭玄ですが、取り巻く環境は決して平穏なものではありませんでした。この頃から、鄭玄自身も後漢の政治の動向に振り回されることになるのです。

党錮の禁と鄭玄

 桓帝は、しばらく梁氏の専横に苦しみながら政治を続けていましたが、ついに延熹二年(一五九年、鄭玄が馬融門下に入る前後)、梁氏一族もろとも三百人を処刑し、親政を始めることに成功します。これによって梁氏勢力は排することができましたが、代わりに宦官に権力が集中することになりました。すると今度はこの宦官の専横に対して、清流派から非難の声が強まってきます。李膺・郭泰・陳蕃といった清流派の官僚たちは、宦官勢力を濁流派と呼び、これを排除しようと努めます。

 これを嫌った宦官勢力は、桓帝を味方につけ、清流派の弾圧を試みます。これがいわゆる「第一次党錮の禁」で、延熹九年(一六六年)、宦官の牢修らによって、李膺・杜密ら清流派が逮捕されます。この時は、陳蕃と清流派の協力者である外戚の竇武(とうぶ)によって取りなされ、赦免されました。

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