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前篇・第一章「生い立ちと学問の目覚め」

イントロダクション

 鄭玄(じょうげん・ていげん、一二七~二〇〇)は、その功績のわりに、現在に伝わる伝記資料の量が少ない印象を受けます。鄭玄の生涯を描写する上での最も重要な資料は、鄭玄の死の二百年以上後に作られた、范曄(はんよう、三九八~四四五)の『後漢書』に収められている鄭玄の個人の伝記(列伝)です。
 鄭玄から范曄まで二百年の隔たりがあるとはいえ、范曄は当時既に存在していた他の数種の歴史書を参考にして『後漢書』の列伝を執筆しており、情報源がしっかりしていますから、その内容は基本的に信頼に足るものです。

 他に、宋代(十~十三世紀)の頃まで、『鄭玄別伝』という鄭玄個人の伝記が書かれた本が存在したらしいのですが、今は失われてしまいました。昔存在した本が失われ行方不明になることを、専門用語で「散佚」と呼び、散佚した本のことを「佚書」と呼びます。
 ただ、我々にとっては「佚書」でも、昔の人は当然読むことができたのですから、彼らがその佚書を他の本に引用する場合があります。こうして、たまたま他の本に引用されたこま切れの『鄭玄別伝』の文章であれば、今でも読むことができるのです。
 このように、他書に引用されて命からがら生き残った佚書の文章を「佚文」と呼びます。『鄭玄別伝』はかなり古くに成立しており、信頼性の高い資料ですから、『鄭玄別伝』の佚文も鄭玄の伝記を作る上で重要な資料となります。

 さて、こうした現存する資料を隅々まで調べ、ある人物の生涯の記録を年代順に並べた本を「年譜」と呼びます。鄭玄の場合、重要な人物ですから、数十種類の年譜が作られました。そのなかでも、王利器という人が作った『鄭康成年譜』という年譜が最も充実しています。前篇では、この『鄭康成年譜』を基礎とし、合わせて近年の研究を踏まえながら、鄭玄の生涯を振り返ることにいたしましょう。

 なお、先に述べたように、鄭玄の伝記資料は決して充実しているとはいえず、それぞれの事績の年代については異説がさまざまにあることはご留意ください。種々の研究を見て、最終的には筆者の判断で年代を組み立てています。

鄭玄の生家

 鄭玄の家系を遡ると、高密(山東省高密市:Googleマップ)に居を構えて王家と血縁関係を持った鄭氏一族に行きつきます。その後、鄭氏は高密から平陵に移り、代々官僚を務めていたようです。鄭玄の八世前の先祖には鄭崇という人がいて、前漢の哀帝の時(紀元前七~一年)、当時の秘書官に当たる尚書僕射を務めました。鄭崇は直截に諫言する人物であったため、嫌われて処罰の憂き目に遭い、獄死しています。

 その後、鄭氏一族は再び高密に移りましたが、ここから鄭玄に至るまでの事績はほとんど分かっていません。鄭玄の生家はあまり裕福ではなかったとのことですから、鄭玄の頃は、地方で小役人を勤めていた家であったと考えておきます。

 鄭玄は、姓が「鄭」、諱(いみな)が「玄」、字(あざな)が「康成」です。古代の中国人は、正式な名前である「諱」のほかに、普段使いの名前である「字」を持っていました。先ほど、王利器が作った鄭玄の年譜『鄭康成年譜』を紹介しましたが、これはタイトルに彼の字を用いています。

 鄭玄が生を受けたのは、永建二年(一二七年)の陰暦七月五日であると、『鄭玄別伝』に記録されています。永建二年というと、後漢第八代皇帝に当たる順帝が即位した翌年です。
 順帝は、父親の安帝の皇太子で次の皇帝の座を確約されていましたが、安帝の皇后である閻氏とその兄の閻顕の陰謀によって、安帝の死後、近親の少帝が先に即位しました。しかし、少帝は僅か七カ月で死去し、閻氏の陰謀は失敗に終わります。ここで孫程を中心とする宦官勢力が巻き返して順帝を推し、結局は順帝が即位することとなりました。つまり、外戚と宦官の争いの中で王位についたのが順帝ということになります

 順帝は即位した後、皇后に梁妠(りょうなん)という女性を取ります。これ以後、彼女の父の梁商、兄の梁冀、妹の梁女瑩らの梁氏一族が外戚として徐々に力を持つようになり、そのまま第十一代の皇帝である桓帝の時まで、絶大な権力を振るうことになります。「宦官」そして「外戚」「梁冀」というキーワードは第二章以後でまた出てきますので、よく覚えておいてください。

 大雑把に言うと、安定期に入っていた後漢の帝政が徐々に揺らぎを見せ、皇帝の外戚や宦官の勢力が増してくる時期、そしてそこから三国分裂に結び付く大混乱が始まる時期、これが鄭玄の生涯とぴったり重なっています。当然、鄭玄の一生も、こういった政治の流れに翻弄されていくことになるのです。

若かりし頃の鄭玄

 鄭玄は生家が貧しかったにせよ、幼いころから学問を修めることのできる環境にいたことは確かです。鄭玄は幼いうちから読書と計算を好み、学問に打ち込んでいました。

 少學書數。(『世説新語』文学篇注引『鄭玄別伝』)
 (鄭玄は)幼くして書・数を学んだ。
 八九歳、能下算乗除。(『太平広記』巻二百十五引『鄭玄別伝』)
 (鄭玄は)八、九歳にして、掛け算・割り算(計算)が得意であった。

 『鄭玄別伝』に載っている少年時代の鄭玄の印象的なエピソードに、このようなものがあります。

 玄年十二、隨母還家、正臘宴會、同列十餘人、皆美服盛飾、語言閑通、玄獨漠然如不及、母私督數之、乃曰「此非我志、不在所願也。」(『後漢書』李賢注引『鄭玄別伝』)
 鄭玄は十二歳の時、母について家に帰り、正腊(冬至から三日後に行う祭祀)の宴会に参加した。一緒に列席した十数人の親戚は、みな服飾を飾り立て、無駄話をしていたが、鄭玄は独りだけぼうっとしていて何も分かっていないような様子だった。母がこっそりと鄭玄をせっつくと、鄭玄は「これは私の望むことではありません。私はこんなことはしたくないのです」と答えた。

 華やかな宴会の場で、親戚一同はみな盛大に飾り立てて楽しく過ごしていたところに、鄭玄は一人だけ一言も発さずに黙りこくっていたわけです。この逸話から、若くして学問に志を立てていた聡明な少年の姿を読み取るか、反抗期で扱いにくくちょっと浮いている少年の姿を思い浮かべるか、これは人それぞれです。

 ここで少し脱線して、「このエピソードはどこに載っている話なのか」ということを説明しておきます。先ほど、『鄭玄別伝』は「佚書」であると言いました。つまり、『鄭玄別伝』という本自体は現代では見ることができないわけですが、この部分はたまたま他の本に引用されているため、現代の我々でもこの文章を見ることができるのです。今回の場合は、范曄『後漢書』に付けられた唐代の李賢(六五五~六八四)という人の注釈に『鄭玄別伝』が引用されていて、我々はこの貴重な資料に触れることができます。この文章の場合は、他にも『藝文類従』巻五、『北堂書鈔』巻百五十五、『太平御覧』巻三十二などといった書物に引用されています。

 「佚文」は、あくまで「他の誰かによって引用された文」ですから、その「他の誰か」による省略・写し間違い・勘違いが容易に混入します。ですから、佚文はいつも「取り扱い注意」の代物です。実際この場合も、上の書籍の間で引用文が微妙に異なっていて、最初の「十二」が「十一二」「十三」になっているなど、少し文字の異同があります。別の観点から言うと、上に書いたような様々な文献に引用されているこのエピソードは、資料としての信頼性が高い・強度が高い、と言うこともできます。

 さて、なぜこんなに「エピソードの出どころ」にこだわって説明するのか?という疑問があるかもしれません。答えは簡単で、歴史を語る上では、「文献の根拠」が最も重要であり、いつ何時もここが出発点であるからです。よって、その文章がいつの時代のどの版の本に載っているのかという情報は、歴史を紐解くうえで決して無視できない重要な要素の一つです。今後、引用文の最後に括弧で附しているのが情報源(出典)ですので、少し注目しながら見てみてください。本当は、佚文を載せているそれぞれの本がどういう本か、ということも説明したいのですが、本題がどこかに飛んで行ってしまいますので、ここでは省略します。

 では、続けて鄭玄の幼少期の学問に関する資料を見ていきます。

 十三誦五經、好天文、占候、風角、隱術。(『世説新語』文学篇注引『鄭玄別伝』)
 鄭玄は十三歳の時、「五経」を暗誦し、天文(天体観測)・占候(気象観測とそれにともなう占術)・風角(五音と風向による占術)・隠術(占術の総称)を好んだ。

 早くから学問に目覚めていた鄭玄は、十三歳の頃、「五経」を暗誦するとともに、今でいう「占術」の学を好みました。これは若年期の鄭玄の学問対象を知る重要な情報ですので、「五経」と「占術」のそれぞれの内容を細かく説明しておきましょう。

 まず「五経」とは、儒教の基本経典で、『易(えき)』『書』『詩』『礼』『春秋』の五種の「経書」の総称です。経書とは、漢代以前から近代に至るまでの二千年以上の間、中国で伝統的に重視されてきた古典群です。なぜ重視されたのかというと、経書は「聖人」(周公、孔子など)と呼ばれる「理想的な人格者」によって編集されたとされ、これらの書籍の深奥の意味を掴めば、理想の社会を実現できると考えられていたからです。
 そこで、学者たちは、経書を研究し、古の理想の時代(夏・殷・周の三代)の制度・規範を復元しようと躍起になりました。この際、特に周の時代の制度が復元の目標とされます。
 鄭玄はこれらの本を「暗誦」したということになりますが、これは鄭玄に限った話ではなく、古代中国の学問のある家では誰もが子供の時に通る道でした。以下が五経の一覧です。

・『易』(周易):陰陽と六十四の卦によって世界の成り立ちを示す書
・『書』(尚書):堯・舜・禹ら聖人の発言を集めた書
・『詩』(詩経):各地の民謡・祭祀の詩・音楽を集めた書
・『礼』(礼経):礼制度(冠婚葬祭、外交、官職など)を記した書、『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』の三著の総称。
・『春秋』:春秋時代の魯国の歴史書

 次に、「占術を好む」とはどういうことか。ここでは、近年研究が進んでいる「術数学」という学問分野から解き明かしていきましょう。この分野の第一人者である武田時昌氏は、以下のように説明しています。

 術数学とは、自然科学の諸分野と易を中核とする占術とが複合した中国に特有の学問分野である。科学と占術は、アウトプットの形式、運用の目的は異なっている。しかし、理論の組み立て方は、老子や易の数理や陰陽五行説を共通の基盤とし、定式的な自然把握と技術操作的な側面において、両者は類縁関係にある。…占星術、錬金術や伝統医療を見ればわかるように、自然探求の学問が思想、宗教と占術の境界領域に自生することは、中国に限ったことではない。今日のように科学と迷信、俗信をはっきりと峻別していたわけではなく、サイエンスの域を逸脱した言説も数多く存在するが、数理的思考や博物学的考察を発揮する場がそこにはあった。(武田時昌『術数学の思考』臨川書店、二〇一八、一八頁)

 つまり、古代中国では「占術」「自然科学」は非常に近い位置にあったわけで、ここで出てくる「鄭玄は占いが得意であった」というエピソードを、われわれ現代人の感覚でとらえてはいけません。鄭玄が幼いころ「計算」が得意であったという話、ここでの「天体観測」ならびに三種の「占術」の話、そして後に出てくる鄭玄が「暦法・数学の書」を学んだという話は、実は全て一本の線で繋がっています。

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