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後篇・第四章「鄭玄の「礼」研究」

周代の礼制を復元せよ

 ここまで、鄭玄の経学における基礎作業、理念、思考法を見てきました。以上を踏まえて、彼が具体的にどのような成果を出したのか、本章で見ていきましょう。

 鄭玄の学問成果は、何といっても「礼学」に発揮されました。「礼」とは古代中国を語る上で最も重要な概念の一つで、社会秩序を保つための政治的・社会的・倫理的な決まり事(規範・制度など)のことです。

 「礼」には、「子は父を敬うべき」といった抽象的な指針から、「父の喪には三年間服し、その時に着る服は最初は○○で、次に△△、食事は…」といった非常に細かな規則まで、あらゆる規範・制度を含むものです。抽象的な概念はそれほど複雑ではありませんから、経学の中で議論が起こる問題は、冠婚葬祭や即位式、外交儀礼などの細かな制度に関するものが大半を占めています。

 「礼」は大きく五つの種類に分けられています。

吉礼 天・地・人に対する祭祀に関する礼
凶礼 葬儀に関する礼
賓礼 賓客を迎える時の礼
軍礼 軍事に関する礼
嘉礼 婚姻に関する礼

 古代中国の学者たち(儒学者・経学者)の目標は、理想的な政治が行われていた古の時代の礼制度を復元し、理想の世界を現世に実現させることにあります。理想の時代とは、夏・殷・周の三代聖人の為政者(聖王)によって治国がなされた時期のことです。
 これらの理想の時代の礼制度は、戦国時代の戦乱や秦代の焚書を経たことで、漢代になると完全な形では伝わっていないと考えられていました。そこで、古代の礼制度を「復元」する必要が出てくるわけです。

 この「復元」の目標は、三代の中でも、特に周代の礼制度に置かれていました。ここで、周代が復元目標にされた理由は二つあります。
 一点目は、周代において文王・武王・周公の聖人による礼制度が実現し、更に同じく聖人である孔子がこれを強調したのだから、その実像を追求するべきであるという理念的な理由。
 二点目は、資料的にまとまって研究可能なのが周代だけだったという現実的な理由。経書のうち、周公の編纂で周代の礼を記した『周礼』、周制を受け継いだ魯国の歴史書を孔子が編纂した『春秋』などは、周に深く関わるものとされます。単純に、周代の礼制は夏・殷に比べて資料が充実しているのです。
 こういった理由から、学者は周代の礼の復元に努めました。鄭玄も例外ではありません。

 鄭玄の学問成果は、周代の礼制度を「体系的に組み立てたこと」にあります。ここで勘違いしてほしくないのは、現代の研究から見ると、鄭玄の研究結果が「実際の」周代の礼制度に合っているわけでは全くない、ということです。むしろ、結局は全く的外れだったと言っても差し支えありません。

 もともと鄭玄の学問の価値は、「その説が歴史的に見て正しいかどうか」という点にはありません。先ほど括弧をつけて強調したように、礼制度を「体系的に組み立てた」こと、そしてこの組み立てが、経書間で相互に連結した高度で精密なものであったこと、これが何よりも重要なのです。

 第六章で見ますが、鄭玄説が実際の礼制度に全く合っていないという批判自体は、現代の研究を見なくても、非常に古くから、何なら鄭玄の直後の世代から存在します。実際、個々の学説において、鄭玄よりも説得力のある礼説を唱えた学者は山ほどいます。しかし結局、彼の三礼注に取って代わる著作を作り上げた者はいませんでした。それはなぜか?鄭玄の学説を超える礼の「体系性」を備えた著作が、ついぞ現れなかったからです。

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