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後篇・第五章「鄭説の概要」

儒教の最高神―昊天上帝

 ここまで、鄭玄の学問に焦点を当てて、基礎作業、解釈方法、その理念と実践を解説してきました。この本書の構成を見てみなさまがどうお感じになられたのか分かりませんが、実は学界で一般的に「鄭説の解説」と言われた時に想像されるメジャーどころの内容を、まだほとんど説明していません。むしろ、ここまで取り上げてきた「君子謂衆賢也」「留車・反馬の礼」「含・襚・賵・賻」「三者同制説」といった事柄は、歴代の議論ではあまり注目されておらず、どれも鄭玄の思考を見る例として(筆者にとっては)非常に面白いものですが、経学史において重要と言えるものではないようです。

 鄭説の定番のテーマと言えば、礼学については六天説、感生帝説、明堂説、郊丘説、禘祫説、五廟説、二十七月説など、それ以外でも、『周易』注の爻辰説、『論語』鄭注の特徴、鄭玄が用いた『尚書』テキスト、真偽不明の『孝経』鄭注などの問題があり、説明できていない事柄は気が遠くなるほどたくさんあります。本章では、これらの重要なテーマを一部取り上げ、見ていくことにしましょう。

 儒教において祭祀が重要であること、そして鄭玄の祭祀の大まかな区分け(天神・地祇・人鬼)は前の章で見ました。ここでは、儒教において最も重要な天神のうち、その中でも最上級に位置する「昊天上帝」と「五帝」に関する鄭説を見ることにします。まず、「昊天上帝(こうてんじょうてい)」の祭祀に関する鄭注が以下です。。

『周礼』春官、大宗伯
〔経文〕以禋祀、祀昊天上帝。
〔鄭注〕禋之言煙。周人尚臭、煙、氣之臭聞者。…昊天上帝、冬至於圜丘所祀天皇大帝。
 「禋」は(音の共通する)「煙」の意。周代の人は香りを好み、「煙」とは気体の匂いがするものである。…昊天上帝とは、冬至に圜丘で祀られる天皇大帝のこと。

 鄭玄は、昊天上帝を祀る祭祀は、「冬至」に「圜丘」(えんきゅう)という場所で行うものと判断しています。「圜丘」がどんな施設かということについては、ネットで検索すると現代の中国にある圜丘の写真が出てきますので、調べてみてください。

 では、この鄭説の根拠は何なのでしょうか。これまでの鄭説の分析から、鄭説の根拠には必ず経書・緯書が絡んでいることが予想されます。実際、一つには、『周礼』春官の「大司楽」という音楽の演奏を司る官職の説明にある、以下の記述が挙げられます。

『周礼』春官、大司楽
〔経文〕冬日至、於地上之圜丘奏之。
 冬至に、地上の圜丘において演奏する。

〔鄭注〕大傳曰「王者必禘其祖之所自出」、祭法曰「周人禘嚳而郊稷」謂此祭天圜丘以嚳配之。
 『礼記』大伝に「王者は必ずその祖が出てきたおおもとを禘祭で祀る」とあり、『礼記』祭法には「周人は嚳を禘し(禘の祭祀で祀り)稷を郊す(郊の祭祀で祀る)」とあるが、これは圜丘で天を祀り嚳を配することを指す。

 「天を祀り嚳を配する」とは、天を祀り、ここに嚳(周の遠祖)も合わせて祀るということ。
 この経文に、確かに「冬至」「圜丘」がセットで出てきます。しかし、これが「昊天上帝」のための祭祀であるとは、どこにも書かれていません。他の文献を色々探してみても、両者がはっきり同じ文脈で登場する記述は見つけられません。実は、経書全体の中で、直接「圜丘」という言葉が登場するのは上の部分だけなのです。
 では、鄭玄はなぜ「昊天上帝」と「冬至圜丘の祭祀」を一本の線につなげたのでしょうか。ヒントは、『礼記』祭法の鄭注にあります。

『礼記』祭法
〔経文〕祭法有虞氏禘黃帝而郊嚳、祖顓頊而宗堯。夏后氏亦禘黃帝而郊鯀、祖顓頊而宗禹。殷人禘嚳而郊冥、祖契而宗湯。周人禘嚳而郊稷、祖文王而宗武王。
 祭法では、虞氏は黃帝を禘し、嚳を郊し、顓頊を祖とし、堯を宗とす。夏后氏は黃帝を禘し、鯀を郊し、顓頊を祖とし、禹を宗とす。殷人は嚳を禘し、冥を郊し、契を祖とし、湯を宗とす。周人は嚳を禘し、后稷を郊し、文王を祖とし、武王を宗とす。

〔鄭注〕禘郊祖宗、謂祭祀以配食也。此禘謂祭昊天於圜丘也。祭上帝於南郊曰郊。祭五帝五神於明堂曰祖宗。…郊祭一帝、而明堂祭五帝、小德配寡、大德配衆、亦禮之殺也。
 「禘・郊・祖・宗」とは、祭祀し、配して祀ることを指す。ここの「禘」は、昊天上帝を圜丘に祀ることを指す。上帝(五帝のうちの一人)を南郊に祀ることを「郊」という。五帝・五神を明堂に祀ることを「祖」「宗」をいう。…郊は一帝しか祀らないのに、明堂では五帝を祀っているのは、小なる徳は少ないところに配し、大なる徳は多いところに配するからで、これも礼の等級付けである。

 見やすくするために、上の注釈の内容を表にしておきましょう。

祭祀(周) 対象 〈場所〉
禘     昊天上帝/嚳 〈圜丘〉
郊     上帝(太微五帝のうちの一帝)/后稷 〈南郊〉
祖宗    五帝・五神/文王 〈明堂〉

 ここで、第四章「礼の復元」で述べた、穴埋め式推理の例を思い出してください。「昊天上帝―圜丘」を結び付ける根拠がないとすると、「郊」「祖宗」といった天の祭祀の方には根拠があり、その種類分け・段階分けの結果、後から昊天上帝が圜丘に配当されたのではないか、という気味がしてきます。

 先ほどの穴埋め推理の方法を逆算して考え、今度は「圜丘の祭祀」以外の二つの祭祀に関する鄭玄の説を見て、その根拠を明らかにしていくことにしましょう(「禘」は数種の祭祀を指し示す言葉でかなりややこしいので、「圜丘の祭祀」と称することにします)。
 しかしこれがまた難物で、前提として説明せねばならない事柄が色々ありますので、ここで節を改めることにいたしましょう。

太微五帝―神秘の存在

 がらりと話が変わりますが、みなさんは「感生」という言葉をご存知でしょうか。中国に限らず世界中に似た伝承がありますが、これは女性が性交無しに妊娠し出産するという伝説です。様々なバリエーションがあるのですが、ここで述べるのは、儒教での伝説上の聖王である五帝が、天の太微にある五帝坐星(現在の獅子座付近)にいる、太微五帝の精に感応して生まれたとする説です。
 古代中国では星への信仰が非常に強く、先ほど述べた昊天上帝は北極星(北辰)にいるとされています。また、第四章で見た表にも、「日月星辰」と「司中・司命・飌師・雨師」が星の祭祀対象として登場していましたね。鄭玄はこの「日月星辰」のうちの「星辰」が五帝坐星のことであることと指摘しています。

 それでは、鄭玄の太微五帝に関する説を見ていきましょう。

『礼記』大伝
〔経文〕禮不王不禘。王者禘其祖之所自出、以其祖配之。
 礼では、王でなければ禘祭を行わない。王者は必ずその祖が出てきたおおもとを禘祭で祀り、これにその祖を配する。

〔鄭注〕凡大祭曰禘。自、由也。大祭其先祖所由生、謂郊祀天也。王者之先祖皆感大微五帝之精以生。蒼則靈威仰、赤則赤熛怒、黃則含樞紐、白則白招拒、黑則汁光紀、皆用正歳之正月郊祭之、蓋特尊焉。『孝經』曰「郊祀后稷、以配天」、配靈威仰也。「宗祀文王於明堂以配上帝」、汎配五帝也。
 大祭を総称して「禘」という。「自」とは「由」の意。その先祖が生まれたもと(=感生させた太微五帝)を大いに祭ることを、天を郊祀するという。王者の先祖はみな太微五帝の精から生まれた。(太微五帝とは、)蒼は靈威仰、赤は赤熛怒、黄は含樞紐、白は白招拒、黒は汁光紀であり、いずれも夏の暦法での正月に郊祭する。これは特に尊崇するからである。『孝経』に「后稷を郊祀し、天を配す」というのは、靈威仰を配するのである。『孝経』に「文王を明堂に宗祀し、上帝を配す」というのは、五帝を全て配するのである。

 この鄭注は、『河図』や『春秋緯』といった緯書に基づいており、鄭玄としては確かな根拠がある説です。五帝の説明にある「蒼・赤・黄・白・黒」の五色は、いわゆる「五行思想」の現れで、「木・火・土・金・水」に対応します。五行思想とは、自然現象や人の身体・運命、王朝交代などあらゆる現象を木・火・土・金・水の五要素の循環によって説明する考え方で、古代中国で発達したものです。

 ここで述べられている五帝のうち、特に重要なのは蒼の靈威仰です。これは周の始祖となった后稷が、蒼の靈威仰に感応して生まれたからです。后稷の感生秘話についてはもう少し詳しい話があり、鄭玄はこのように述べています。

『毛詩』大雅、生民
〔経文〕履帝武敏歆、攸介攸止、載震載夙、載生載育、時維后稷。
〔鄭箋〕帝、上帝也。敏、拇也。介、左右也。夙之言肅也。祀郊禖之時、時則有大神之迹。姜嫄履之、足不能滿。履其拇指之處、心體歆歆然。其左右所止住、如有人道感己者也。於是遂有身、而肅戒不復、後則生子而養長、名之曰弃。舜臣堯而舉之、是為后稷。
 「帝」とは上帝のこと。「敏」とは足の親指のこと。「介」とは左右のこと。「夙」は(音の共通する)「肅」の意。郊禖(子を求める神)を祀った時、ちょうど大神の足跡があった。姜嫄はこれを踏んだが、踏んでも満たせない大きさで、その親指のところを踏むと、身体に悦びを抱いた。その左右に揺れて止まる感覚は、人との交わりで自分が感じたものに似ていた。そのまま妊娠し、その後は自らを厳しく律し、その後に子供が生まれ、これを「弃」と名付けた。舜が堯の家臣であった時にこれを推挙した。これがのちの后稷である。

 姜嫄(嚳の妃)が神の足跡を踏んだことで感生し、周王朝の始祖である后稷を産んだとする説です。后稷の感生は緯書の他に『史記』にも見える話で、今見るとスピリチュアルなものを覚えますが、漢代ではどのように受け止められたのでしょうかね。『史記』のようにこの説を採用する記述もあれば、『毛詩』毛伝のようにこれを採用しないものもありますから、半信半疑といったところでしょうか。後篇第二章で、『毛詩』鄭箋は「『詩』+毛伝+鄭箋」の二段構えの解釈であるというお話をしましたが、この例のように、毛伝と鄭箋とで解釈が異なっている場合もあります。

 さて、いずれにしても、先ほどの表の通り、鄭説ではこの太微五帝が明堂において祀られ、そしてそのうちの一帝が郊において祀られます。では、太微五帝と明堂・郊はどのように結びつくのでしょうか。まず、先ほどの『礼記』大伝の鄭注に挙げられていた『孝経』の経文を読んでみます。鄭玄の『孝経』重視については、『六藝論』の項で述べましたね。

『孝経』聖治章
 昔者、周公郊祀后稷以配天、宗祀文王於明堂以配上帝。
 むかし、周公は郊において后稷を祀り天を配し、明堂において文王を宗祀し上帝を配した。

 先の『礼記』大伝の鄭注では、このうち「周公が后稷を郊祀し天に配した」ことを、「靈威仰を配する」のだといいます。これは、先ほどの『礼記』大伝の経文に「王者禘其祖之所自出(王者は必ずその祖の由来を大祭で祀る)」とあったからです。周公から見ると、自分の始祖が后稷であり、その后稷の出現の由来は感生を与えた靈威仰にあります。
 以上、『礼記』大伝と『孝経』の合わせ技で、「郊―后稷―靈威仰(太微五帝の一つ)」が繋がりました。なお、ここで祀る感生帝は、殷なら殷の始祖の感生帝を祀る、というように王朝によって変化します。

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