新聞というメディアの形
2000年代の前半位だったでしょうか。
とあるお酒の席で新聞社の方(最近引退したか記者というより管理者的な立場となった方)と隣同士になりました。
まぁ隣同士であるからにはご挨拶がてら適当な話題を振り合う事になります。
そしてどういう流れかは流石に覚えていませんが権威ある新聞と根無し草の様なデジタルメディアの対比的な話題へと転がってしまいました。
2000年代といえばインターネットが一般層にも爆発的に普及し始めた頃で情報メディアの一角として存在を認知され始めた頃でした。
今では一部の国で車をトヨタやホンダと呼ぶみたいに「検索 = google」となっていますが、この議論をした頃はようやく一般の方がgoogleの存在を意識し始めた時期だった様に思います。(千里眼とかFreshEYEとかYahhoとか)
新聞屋さんの主張はこうでした。
新聞ネガキャンの為の火種か?と思う程恣意的な内容を書いたなぁ自分自身感じてしまいますが(笑)、たぶんネットメディアというか、ネット文化を見下す態度にカチンときた結果で議論になったと考えればやはりこんな感じだったのでしょう。
ではここから旧態依然の新聞をつるし上げだー(ヒャッハー)と話を進め・・・そうなのですが、結局はどちらがメディアとして偉いとかの話ではありませんので新聞派の方も宜しければもう暫くお付き合いください。
新聞屋さんへの私の返答はこうでした。
・・・やはり内心腹を立ててたのでしょうね、当時の私は(笑)
相手も相手で若造(当時)に真っ向から反論されて引くに引けず戦いは泥沼に入ります(;´Д`)
<別の泥沼の戦い>
この論戦の結果がどうなったかは置いといて、そもそもメディアの信頼感とは何でしょうか。
新聞屋さんは長い歴史と実績を挙げていましたが、これらは裏を返せば古いしきたりに囚われた可能性や不祥事の歴史も含み長く続けば清廉という理由でもありません。(正直おまいう案件が過去から現代に至る迄多数存在する事は皆さんも薄っすらながら御存知かと思います。)
元々新聞(という名称で歴史を区切れば)もぽっと出のメディアだった時代があり全てがブーメランな発言です。
恐らく当時の私はインターネットという新しい通信媒体の事をろくに理解もせず思い込みで批判するその姿勢に腹を立てたのだと思います。その発言者が言葉や情報を扱うプロといえる新聞屋であっただけに尚更。
さて、ここで新聞屋さんの指摘に立ち戻るのですがメディアの形って単なる器だと思うのですよね。
機材が揃った居抜きの飲食店舗があって、そこに入るのはラーメン屋・カレー屋・うどん屋と時代時代でバラエティに富んでいますが・・・その店に客が求める要望は「うまい飯が食べたい」の一点のみです。
それなら情報メディアに求められるものは「歪められていない正確な情報」ではないでしょうか?
・・・といいつつも発信者の姿勢がアレな場合も多いですが、受け手も「ゲテモノ料理」を求めていたりと正直この辺は断言しようとしたけどそうもいかない昨今の背景を考えると上手くまとめられない感じで・・・いや、そもそも「うまい飯」というのは口当たりの良い形に加工された情報!?
発信者は「世に送り出したい情報」を発信し、受け手は「自分が望む情報」を受け取りたい。
てはマスメディアの望ましい姿とは?・・・(ぐるぐるぐるぐるぐるぐる)
私の乏しい思考能力では論理破綻の修正結果が出るのが数カ月後になりそうなので慣れない難しい話はこの辺りで止めておきます(;´Д`) チエネツ デテキタ
結局この議論は腹が立ったものの別に目上をやり込めたい訳では無い私の心情と、素人に論破され続けるものの目上の立場を利用して高圧的に捻じ伏せようと迄はいかなかった(相当言い訳がましい反論は来ましたがw)新聞屋さんの両方の中途半端さから自然消滅した訳ですが・・・今思えばこの新聞屋さんなりに新しいメディアが存在感を増す危機感を背中に感じての発言だったのかも知れませんね。
器はどうあれ情報というものにどういった姿勢で取り組むか。時代が変わろうがそれを伝える手段が変わろうが、本質的なことは結局シンプルなままなのかも知れません。(自分では答えを出せなかったですけどね)
果たしてこの新聞屋さんはその後のデジタルメディアの台頭に対し(煽りではなく)どの様に接したのかは個人的に気になります。
実際に予想以上の情報過多時代になってしまった現代では新聞屋さん自身が仰ったように「情報のプロ」の重要性はより増したのではないかと思うだけに。
<次の記事>
<前のお話>
<どくのぬまちをあるくのにそんなそうびでだいじょうぶか>
私のマガジンで唯一ちょっと真面目寄りな話題を扱っています(゚д゚) ニアワナイヨネ
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?