愛を知らない
わたしの中で愛情とは日常の中で"心配してくれること"だと思っています。
これは放任主義の家庭に生まれ、育った大人の話です。
わたしの生まれた家庭は放任主義でした。
わたしのやってみたいことに対して何も口出しせず特に心配されたこともありませんでした。
小学5年生の時から浮いていることに気づき、辛かった中学生時代。
実は辛すぎて、記憶がないのです。
苦しかったことだけは、覚えているけど。
必死に周りにアピールしても"ももちゃんなら大丈夫"と話を聞いてもらえなかったからです。
わたしもSOSが下手だったかもしれないけれど、わたしなりのSOSに気づいて欲しかった。
何も言われず育ったわたしは全部自分で決めて全部背負わなければならない、と。
どうでもいいことも手を抜けなくなりました。
SOSには気づいてもらえないとわかっていたので出すことを諦めました。
どんなに辛くても、涙と唇を噛みしめて、耐えればいいと。
でも、いつもいつも
"大丈夫?"という一言が
いつもいつも欲しかった。
励ましでもない、同情でもない。
共感が欲しかったのです。
心配が欲しかったのです。
そのせいで"心配しない"="興味がない"="わたしへの愛情はない"という結論に辿り着いてしまいました。
家庭環境や周りの人間を恨む気持ちなど全くありません。
大人になった今、今までの出来事が愛情に溢れていたことが理解できます。
だけれど、愛情への行動の結びつき、感覚はどうしても付き纏ってきます。
寂しさが無くなることなど、一生ないのではないか、と。
この文章は、わたしはなぜ愛されていると感じられないのかと本気で考え、出てきた言葉です。
抽象的でわかりにくいかもしれません。
でも、もしかしたら
あなたはこの文章だけでも、理解できる人間かもしれない。
そうだと、とてもとても嬉しいです。
これを読んでいる人だけでも、愛を伝えたい相手にはまっすぐに伝えて欲しいと思います。
寂しさばかり感じてしまうわたしみたいな人間が一人でもいなくなりますようにと願っています。
どうか、みんな幸せに生きていて欲しいです。
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