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ライター・作家 権藤将輝(ゴンドーマサキ)
2024年3月16日 15:00
「紀元後は」小学校から帰ってきた娘が無邪気に話そうとするのを、僕は肝を冷やしながら慌てて止めた。口を塞ぐという実力行使で。娘は苦しそうにしている。僕の様子がいつもと違うのを察知しているのだろう。目には涙を浮かべている。たぶん恐い顔をしているはずだ。「お願いだから、これ以上、言わないで。お願い」自分で言うのはおこがましいが、優しいパパだと思う。それだけに、娘は突然の豹変に恐怖を抱き、戸惑
2024年2月4日 16:36
俺は、自分の両手を見てギョッとした。甲に浮いていた血管は沈み、骨ばっていたのが綺麗に丸みを帯びている。そして、何より小さい。まるで子どもの手だった。「あら、起きたの?」前から声がして、こちらを振り返る顔に息が止まった。母親なのだが、現在の母親ではない。前に座っているのは、若かりし頃の母親だった。「怖い夢でも見た?」助手席から心配そうにしている。「おい、返事くらいしろ」運転席
2021年3月23日 19:56
チューニングすると、かすかに聞こえてきたのは電車の音。布団の中で、マーチは静かにガッツポーズをした。「これ、知ってるか?」親友のカンナが見せた白い紙には4桁の数字が書かれてあった。暗号のようで、胸の鼓動が速くなるのを感じる。「知らない。何の数字?」カンナは周囲を気にしながら耳元で囁いた。「遠くの町にあるラジオ局の周波数。俺も何日か前にキャリーから教えてもらったばかりなんだけど、
2020年12月1日 18:14
「最近よくドライブに誘ってくれるね」前方の信号が黄色になったため、ブレーキをじんわりと踏んだ。まるで地面に吸い付くような感覚が足元から伝わる。晴彦は、アクセルを踏み込む走行時は言うまでもなく、ブレーキングにも快感を得ていた。助手席に座る栞の方を向くと、人差し指で頬を触っている。彼女のクセだ。「この車に替えてから運転が楽しくなったんだ」信号が青に変わり、アクセルを踏む。再始動の際、少し間
2020年11月24日 19:30
群青色の空で、一羽のカモメが風に煽られていた。不可抗力によって方向を変えられてしまった姿が哀れに映ったのは、自分と重ねてしまったからかもしれない。今日は風が強い。防寒に優れた厚手のダウンジャケットを羽織っている佳嗣だが、全身を容赦なく打ち付ける寒さに肩をすくめた。佳嗣が、ここを選んだ理由は特にない。30歳を迎えて無性に旅に出たくなり、なるべく遠いところに行こうと、この港町に決めた。町全体が静か
2020年11月2日 18:01
履けば空を駆け上がれるかのような、軽くて丈夫な空色のくつを作る職人がいた。名は、ディエゴ。彼の工房は、緑豊かな山に囲まれた高台にある小さな町にあったが、その評判は国中に轟いていた。「ディエゴさん、ありがとう。おかげでまた仕事がはかどるよ」やって来たのは、鳶職のドミニク。若い衆をまとめる兄貴的な存在で、新入り用に追加注文していた。ディエゴのくつは、建築業や運送業などに携わる人たちに特に大人気
2020年10月28日 15:36
「エリックの奴、ほんとうに腹が立つわ!」ドアを開けて入って来るなり、スカーレットは非難の声をあげた。こうして怒りを露わにするのは珍しい。どちらかといえば、感情的なクレアを諫めるのが役回りだ。同じ年だが、背の高いスカーレットはお姉さんのようでもある。「どうしたの?」テーブルランプが照らす頬は膨らんでいる。シートの上に三角座りするクレアが聞くと、スカーレットは腰に手を当てて答えた。「女
2020年4月23日 18:04
大地を創った王が天に召される数日前。王は、3人の家臣を集めた。彼らは優秀で、王亡き後の世界を託されている。武力を司る勇敢なスコット、民の暮らしを見守る物静かなアリテージ、そして、生命を癒す歌うたいのハメロンだ。王は、3人に告げた。「この中から好きなものを選べ」ひとつ、何でも切り裂く剣。ひとつ、この世で最も速い馬。ひとつ、世界中に声が届くメガホン。どれも全知全能の王の力が込められた宝だった。
2020年4月21日 19:02
「ココちゃん、逃げよう!」そう言って悠斗が家を飛び出したから、心音は急いで後を追った。おかあさんに叱られないか心配だったけど、ふたつ年下でまだ小学1年生の悠斗をひとりにするわけにはいかない。裸足でスリッパを履き、できるだけ早足で歩く。最初の角を曲がったところで追いついた。狭い路地に佇む悠斗が、不思議そうにこちらを見上げる。「どうしてそれ持って来たの?」心音の手にはカップラーメン。お湯を
2020年4月18日 20:23
「このたびは、受賞おめでとうございます」インタビュアーに祝福されるも、まだココロは実感が湧かなかった。無理やり口角をあげてはみたが、ちゃんと笑顔を作れているのか不安になる。さっき金屏風の前で写真撮影をしたが、どんなふうに写っているのだろう。こんな日が本当に訪れるなんて、思ってもみなかった。一時は小説を書くことをやめた。けれど、やめられなかった。もしかしたら、これが血というやつなのかもしれな
2020年4月17日 18:57
「満月の名前って、こんなにあるんだね」僕は、美玖が差し出したスマホの画面をスクロールする。ウルフムーン、スノームーン、ワームムーン、ハンターズムーン、ビーバームーン。確かにいっぱいある。「どうしたの?急に」「いや、これ食べてて思い出したから」指でつまんでいたのはイチゴだった。「イチゴの収穫が6月だから、その時期の満月をストロベリームーンって呼ぶようになったらしいよ。月が赤とかピ
2020年4月16日 21:22
「昔々、世界には色が無かった」。僕は子どもの頃、そう思っていた。厳密に言えば、色があった事実を信じ切ることができなかった。親が見せてくれるのは、モノクロ写真ばかりだったから。町にも、空にも、着ている服にも、そして、人間にも色が無い。母親に聞いてみたことがある。「お母さんが小さかったとき、空はこんな色をしていたの?」「今日みたいな青い色をしていたよ。空は今より綺麗だったかなぁ」若かりし母
2020年4月15日 20:54
下校中、凛香を見た。彼女の視線の先には、信号待ちの黒塗りの車。権力者の象徴だ。周りの空気が小刻みに震えて見えるほどの迫力を纏っている。今から2年前、凛香の父は突然の心筋梗塞で息を引き取った。その日は高校の入学式で、私もはっきりと覚えている。隣に座っていた凛香は、担任から静かに声をかけられると、式を途中退席した。すぐに病院に直行したが、間に合わなかったらしい。後に「過労によるストレスが原
2020年4月14日 20:36
空にきれいな満月が浮かぶ夜。お城の中の王の間(ま)で、王様はひとりの男と向き合っていました。部屋には二人きり。他に召使いはいません。立派な椅子に腰かける王様の前に直立する男。その顔は、なんと王様と瓜二つです。深く刻まれた二重の目や鼻の下に蓄えた左右に伸びる髭、大きな鼻に少し尖った耳、それから薄い唇や右頬にあるホクロの位置まで全く同じ。着ている服の素材が絹か麻かの違いを除けば、どちらが王様か見分