ショートショート『Golf & Peace』
「最近よくドライブに誘ってくれるね」
前方の信号が黄色になったため、ブレーキをじんわりと踏んだ。まるで地面に吸い付くような感覚が足元から伝わる。晴彦は、アクセルを踏み込む走行時は言うまでもなく、ブレーキングにも快感を得ていた。助手席に座る栞の方を向くと、人差し指で頬を触っている。彼女のクセだ。
「この車に替えてから運転が楽しくなったんだ」
信号が青に変わり、アクセルを踏む。再始動の際、少し間が空くアイドリングストップにも慣れた。
「よかったね。この車、前から欲しかったんでしょ?」
「うん。やっと買えた。中古だけど」
数年前、テレビCMで見たのが今の車だった。エクステリアのデザイン性とカラーに一目で惚れ込んだ。しかし、当時の晴彦に新車を買えるほどの経済的な余裕は無かった。
「別に中古でいいじゃん。たぶん喜んでるよ、こいつも」
左に大きくカーブする。曲がり終える手前で加速すると、栞が言うように無邪気にはしゃいでいるかのように感じた。現実的にはありえない話だけど。
「わたし、中古車の気持ちが何となくわかる」
ハンドルを握ったまま、ちらっと栞を見る。窓に肘をつき、進行方向を見つめていた。
「いろんな事情があって売っちゃうんだろうけど、売られた方は悲しいと思うよ。まだ走れるなら余計に。だから、次に乗ってくれる人が現れたら、そりゃ嬉しいよね」
「そんなもんかなぁ」
「そんなもんだよ。捨てる神あれば拾う神ありって昔から言うじゃん」
晴彦は、はっとする。栞は施設で育った。両親と離れた経緯を晴彦はよく知らないが、中古車に自分の境遇を重ね合わせたのかもしれない。
「きっと、運命だったんだよ」
あてもなく北へ向かい、ドライブウェイに入る。緑が綺麗だった。
「確かに、そうかも」
中古車を購入しようとネットで検索した晴彦は、ある車両が気になった。けれど、実際に実物を見に行くと、どこかしっくり来ない。残念に思いながら帰ろうとしたとき、数台隣に止まっている車が煌めいて映った。
「俺、忘れてたんだよね。でも、完全に思い出した。ボディカラーもCMで見たのと同じでさ。鳥肌が立った」
憧れを抱いていた車に偶然出会い、どこかに置き忘れていた記憶が徐々に色づき始め、熱を帯びる。晴彦はその場で即決した。
「表情がよくなったよね、晴彦くん」
突然の話題転換に戸惑う。それに、気恥ずかしいのもある。
「そうかなぁ」
「前は強迫観念に支配されてたから。早く何者かにならないとって焦ってたし」
何者でもないと思われることの恐怖心が確かにあった。ただ生きていることの罪悪感。誰かの正義に触れるたび、責め立てられているような気にもなった。足掻けば足掻くほど泥沼にはまる。何かが違う。自分の中に芽生えた違和感に蓋をして息を止めていたが、長くは続かなかった。溺れそうになった間際、栞の言葉に救われた。
『人は、生まれた瞬間から何者かになってるじゃん』
今でも心が軽くなる。栞には頭が上がらない。
「これからも、晴彦くんとして真っすぐに生きていくんだよ」
「かしこまりました」
わざと丁寧に返すと、栞は「よろしい」と言って満足そうに笑った。
ドライブウェイ終盤、二股に分かれる信号で停まった。
「右に行こう」
言われたとおり、晴彦は右にハンドルを切り、山道を下っていった。
*
その日の夜、ソファに座りながらテレビでニュースを見ていた晴彦は飛び起きた。交通事故のニュース。対向車線を走る乗用車とトラックが正面衝突し、後続車が次々と追突する大惨事となっていた。
その場所は、昼間に走っていたドライブウェイ。終盤、二股に分かれる分岐点で、左に行った先だった。発生時刻は、ちょうど晴彦たちが右に曲がった後。もしも左を選んでいれば……晴彦はぞっとした。
スマホが鳴り、表示を見ると栞からだった。
「ニュース見た?」
栞の声が上ずっている。
「見たよ。驚いた」
「ほんと間一髪だったね。いくら平和でもやっぱり死はいつも身近にあるんだよ」
「怖いこと言わないで」
「別に怖がらせるわけじゃないけどさ。だから、楽しく生きないとダメだね」
また栞に命を救ってもらった。
「栞、ありがとう。あのとき、右に行こうって言ってくれて」
「えっ?」
少し間が空いた。アイドリングストップから再始動するときのように。
「私、そんなの言ってないけど」
fin.
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