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ショートショート『港町の夜』

群青色の空で、一羽のカモメが風に煽られていた。不可抗力によって方向を変えられてしまった姿が哀れに映ったのは、自分と重ねてしまったからかもしれない。今日は風が強い。防寒に優れた厚手のダウンジャケットを羽織っている佳嗣だが、全身を容赦なく打ち付ける寒さに肩をすくめた。

佳嗣が、ここを選んだ理由は特にない。30歳を迎えて無性に旅に出たくなり、なるべく遠いところに行こうと、この港町に決めた。町全体が静かで、カモメの鳴き声だけが空から響いている。商店の多くはシャッターが閉まっていて、撤去されないで残ったままの看板のデザインやフォントが古めかしい。しかし、佳嗣には、10代の頃によく観た映画の舞台に似ているようにも思え、時代錯誤な町の雰囲気に好感を抱いていた。薄暗い路地を歩く。ネオンが明るい繁華街なんかより、今の自分にはちょうど良い。

大通りから突風が吹いた。路地に引力が発生し、そこらじゅうの空気を一気に吸い込んだように。足腰に力を入れて耐え、佳嗣は下を向いて目をつぶった。

風が止み、目を開けると、すぐに気づいた。何かが違う。カモメは空を飛んでいるし、シャッターが閉まった商店の看板は古めかしいままだ。だが、何かが変わってしまったことを佳嗣は悟った。この町は、静かだ。それでも、町である以上、人がいないなんてことはない。そんなこと、あるわけないと想像を茶化しつつも、動悸は抑えられず、冷たい汗が背中を流れた。

歩く速度が徐々に速くなる。頭では川沿いにあるホテルに向かうつもりでいるが、心と身体が言うことをきかない。さっき見た、風に煽られたカモメを思い出す。空は青みを失い、漆黒と化した。喉が渇き、息が上がるが、両脚を動かさずにはいられなかった。

角を曲がると、少し先にある赤提灯が視界に飛び込んできた。「ここで止まれ」と命令されたように感じ、佳嗣は従って進み、足を止める。赤提灯が軒下にぶら下がった小屋の引き戸を開けると、そこは小料理屋だった。L字のカウンターに椅子が6つの狭い店。中には小柄な女将がいて、テレビを見ていた。

「いらっしゃい。おひとり?」

ほっとした佳嗣はその場に崩れ落ちそうになったが、女将が怪訝そうにしたため、急いで椅子に腰かけた。

壁に貼られた白い紙には、ドリンク類だけがペンで書かれている。生ビールを注文すると、お通しが次々と並べられた。卵焼き、ホタテ、山わさび、サンマ、筍。海の幸と山の幸は、どれも絶品だった。水分が枯渇気味だった身体に潤いが戻っていくのを実感する。佳嗣は生ビールをおかわりすると、半分くらいを一気に飲み干した。

「おにいさん、いい飲みっぷりだね」

「喉が渇いてたので」

「どう? おいしい?」

「はい、どれもすごくおいしいです」

「よかった。で、この町に何しに来たの?」

佳嗣は、なるべく遠いところに行きたくなったと、女将に正直に話をした。旅の恥は掻き捨てとはよく言ったものだ。

「まぁ、生きていれば色んなことがあるよね」

女将は奥から日本酒を取り出し、ガラスのグラスになみなみ注いでくれた。

「あ、これはサービス」

キリっとしているものの、ふくよかな甘みが広がる美味しい酒だった。

「港町を選んだってことは、許されたいんだろうね」

女将の一言に、佳嗣は戸惑った。

「私が若い頃に流行った昔のフォークソングみたいで、陳腐に思われたら嫌なんだけど、港町っていうのは、どんな人も帰って来れる場所なんだよ」

「どんな人も?」

「そう、例えば、人殺しだってね」

その言葉に思わず身震いすると、女将は笑った。

「いやねぇ、おにいさんがそうだって言ってるんじゃないわよ。港には、それだけの包容力があるっていうこと」

「不思議、ですね」

「不思議なの」

壁に掛けられた時計は止まっていて、何時かわからない。でも、そんなことはどうでもよかった。

「もう一杯、いいですか?」

すると、女将は顔の前で両手を合わせて申し訳なさそうに告げた。

「ごめんなさい。そろそろ閉店の時間なの」

「そうなんですね」

「残念?」

「えぇ、ちょっと。あまりにも居心地が良かったので」

「嬉しいわ。でもね」

電卓を叩いていた女将は、指を止め、真っすぐな視線を寄越してきた。顔と首筋に刻み込まれた皺。全く知る由もない彼女の人生に触れた気がした。

「立ち止まってちゃいけないよ。前を向いて、しっかりと進まないとね」

ピシャリと頬を叩かれたように、佳嗣は背筋を伸ばした。

「ここに来たのも何かの縁だと思うの。だから、また帰ってらっしゃいね」

外に出ると、相変わらず風が強かった。けれど、酔いが回っているせいか、身体がポカポカする。

ホテルの方角は把握できた。今度は、大丈夫だ。カモメがいなくなった夜空。見上げると、無数の星が煌めいていた。

fin.

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