ショートショート『世界の秘密がバレないワケ』
「紀元後は」
小学校から帰ってきた娘が無邪気に話そうとするのを、僕は肝を冷やしながら慌てて止めた。口を塞ぐという実力行使で。娘は苦しそうにしている。僕の様子がいつもと違うのを察知しているのだろう。目には涙を浮かべている。たぶん恐い顔をしているはずだ。
「お願いだから、これ以上、言わないで。お願い」
自分で言うのはおこがましいが、優しいパパだと思う。それだけに、娘は突然の豹変に恐怖を抱き、戸惑っていることだろう。娘にしてみれば、親友のミクちゃんから聞いたおもしろい話をパパにも聞いてもらいたかった、それだけのことだ。申し訳ない気持ちはある。でも、これこそが僕が娘を心から愛している証なのだ。
「パパのお願い聞いてくれる?」
再び確認すると、娘は何度も頷いた。まだ心配ではあったが、口を塞いでいた手を離すと、娘は空気を吸い込み、そして、声をあげて泣いた。
僕は、娘を抱きしめた。自分が小学生だった頃を思い出しながら。
*
「世界の秘密、教えてあげよっか?」
確か小学二年生のとき、ある女子児童に体育倉庫の裏に呼び出され、こう言われた。その子の名前は覚えていない。おさげ髪だったことだけ、微かに記憶に残っている。
「世界の秘密?」
休み時間、運動場ではたくさんの児童が遊んでいた。ドッジボールをしたり、おにごっこをして駆け回ったり、ジャングルジムに登ったり。そんなざわめきを聞きながら、ちょっとひんやりする体育倉庫の裏で女子児童と対峙する僕は、ただでさえドキドキしていた。そのうえで、世界の秘密である。気分が高揚しないわけがない。
「そう、世界の秘密」
「知りたい! 教えて!」
女子児童は笑うと、僕の耳元で囁いた。
「実はね、紀元後は」
その息遣いだけが、妙に生々しくこびりついている。
学校から家に帰ると、母からその日あった出来事について聞かれるのが我が家の日課だった。僕は、体育倉庫の裏で女子児童から聞いた話を母に教えてあげようとした。
「今日はおもしろい話を聞いたんだ。お母さんは世界の秘密、知ってる?」
「なーに?」
母が知らないことを、子どもの僕が知っている。優越感に浸れたが、それは一瞬のことだった。次の一言で、母の表情が一変したのだ。
「実は紀元後ってね」
「やめなさい」
「えっ……」
あまりの剣幕と、きっぱりとした物言いに僕は慄いた。
「その話はいいから、もうやめなさい」
そう言うと、母はそそくさと居間から立ち去って台所に行ってしまった。母の機嫌を損なわせてしまうのは、子どもの本意ではない。この話はしてはいけないんだと、僕は自分に言い聞かせた。
この考えを確固たるものにしたのは、次の日の事件が大きく関わっている。その女子児童が、転校になったのだ。担任の先生は「急なことで先生も驚いているんだけど」と、何かしら差し迫った事情があったのかもしれないことを隠そうとはしなかった。
もしかしたら、あの話を僕にしたことが原因なのではないかと、僕は思った。世界の秘密を喋ってしまったから、あの子はここにいられなくなってしまったんじゃないだろうか。そう思い始めると、そうとしか思えなくなり、僕は震えた。
聞いた話は忘れよう。絶対に口にしちゃいけない。小刻みに震える両手を強く握りしめ、教室で誓った。
*
次の日、娘が泣きながら学校に帰ってきた。ランドセルを置いた後もしばらく落ち着かず、嗚咽をもらしている。
「学校で嫌なことでもあった?」
背中をさすりながら尋ねると、娘は手で涙を拭いながら首を横に振った。
「ううん」
「じゃ、どうしたの?」
「ミクちゃんが」
血の気が引き、背中に冷たい汗が流れた。
「ミクちゃんが、どうしたの?」
「ミクちゃん、いなくなっちゃった」
ミクちゃんが転校してしまったという。あの女子児童と同じだ。やっぱり、あの話は口にすべきじゃないんだ。
僕は二階の仕事部屋に向かい、物置スペースと化しているクローゼットを開けた。黒のマジックで「小学校」と書かれた段ボールを引っ張り出し、ガムテープをはがす。段ボールにはアルバムや文集が詰まっていて、それらの一番下には黄ばんだ二つ折りの紙が今もあった。女子児童から聞いた話は、意識して忘れようとした。ただ、どうしても忘れられない一節があって、僕はそれを書き記していたのだ。紙を開くと、子どもの頃の僕の字が飛び込んできた。
『紀元後は紀元前の残骸』
これだけでは、何のことだかさっぱりわからない。けれど、これを娘が目にしてしまい、何かの拍子にあの話を喋ってしまっては大変なことになる。
僕は黄ばんだ紙をビリビリに破き、ゴミ箱に捨てた。
fin.
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