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ガンと戦った母の17年間と僕

お母さん、元気にしてますか?
また、僕は一つ歳をとりました。
産んでくれた事、ありがとう。
この引き継がれた命、僕はちゃんと生きれてますか?

闘病生活を必死で頑張って、生きる姿を見せる事で、人を救いたいって言ってたよね。
今思うと、強い母だったのでは無く、その言葉をかてにもっと、もっと生きたかったんだよね。
気づいてあげられなくてごめんね。

ご覧になった方々に、こんな人もいるんだなぁ、とか、自分も同じ状況で共感して頂いたり、短な人に似た人がいる、など少し緊張をほぐして前向きになれたら、母も喜んでくれると思います。

母は近所でも、顔のしれたスポーティーで曲がったことが嫌いな、友達も多い姉御肌タイプの人でした。父は子育て、家族は興味が無く仕事、ご飯、昼寝の昔タイプの父親です。

僕が仕事で一人暮らしを始め数年後、母が体調が悪いと言う事で、病院に行ったところ乳ガンと診断、本人もシコリが気になっていたようです。
今まで見たことがない母の不安そうな悲しい顔でした。

母は「乳ガンは治るから心配ないよ、大丈夫」と家族の事を思い言ってましたが、きっと自分に言い聞かせてたんだと思います。
僕も、家族内で大きな病気をした人もいなかったので動揺していたのを覚えています。

直ぐに入院、手術と無事に進み、摘出したガンをみました。理科室で見た色合いと、黒くなった部位があり、これが母を悩ませたガンなんだなぁと。
退院後も薬の服用と、定期検診、ガンは時間との戦いでもありました。

5年再発しなければ、、、、更なる試練が訪れました。
ちょうど5年後、体中にガンが散らばり手術は出来ない場所にも転移。家族内呆然でした。
それより母、本人のショックは計り知れなかったと思います。

母は「きっと再発すると言うことは何か意味がある、また、頑張らなきゃ」と、のちに治療のつらい時に何度も言って自分を振るい立たせてました。
死と向かい合わせになって、凄くつらく怖かったんだと思います。

入退院を繰り返し、治療、新薬にもチャレンジ繰り返す、副作用で体は太り、疲れやすくなったり、聴覚、味覚、、、人間の五感もおかしくなったり、不安な日々が続きます。
少ない元気な日は、料理したり、外出もしたり、散歩したり、出来るだけ元気な日は、ストレス解消で友達とおしゃべりしたり、少し外に出たりモチベーションを保つのも大変だったと思います。

そんな日々、父は母に飯つくれ、掃除しろ、病人の母に1日家にいて暇なんだから、、とひどい言葉をあびせる日も。そんな父でしたから、僕も毎週末実家に帰り家事をして、母が怒られないように、散歩に一緒にでたり、なるべく外に連れ出しストレスを貯めないように工夫もしてました。

本人は病気と戦うだけで精一杯だったのにつらかったと思います。

そしてのちに父も大腸ガンになり、入院、手術。
父は病院でもタバコは辞めろと言われたのに退院後一週間でまたプカプカやってました。

治療は続き、ガンに良いという食品にもたくさんチャレンジし、嫌いな野菜をたべたり、苦い訳のわからないドリンクを飲んだり、母の友達、親戚のおばさんにはたくさんお世話になりました。

母の髪が少し抜けるようになり、帽子をかぶるように。ある時、
母が「バリカンしてくれない?」
母がどれだけ勇気を振り絞って言っているか、僕は泣きながら母の頭にバリカンをいれました。
母は決心もあったが、悲しそうな顔してました。
こんな日がくるなんて。
こんな辛い思いは一生忘れません。

手もしびれ、独りで爪も切れなくなって。

そして、ガンは母の体を蝕んでいきます。

最近頭がおかしいと言い始め、物忘れ、記憶のムラが出てきたと言うのです。

段々と物忘れがひどくなり玄関、トイレの位置が、解らなくなり家の中をうろうろ。
普通に話しはしますが、話したいことを忘れたり、
今、何してたっけ、、、、と。
ある夜中、父が母がベットに居ないのに気づき探した所、家の近くの掘りに下半身泥水に浸かり木の枝を杖に立っていたそうです。

危険な状況になり検査入院。

ガンは母の頭にも。
容赦ない試練が。

急いで入院し、脳には薬は効かないので放射線治療、ただし一回しか出来ない。
効き目があっても、正常な部分も傷つけるので後遺症も。
効き目が無ければ、痛み止めで死を待つだけ。

放射線治療、、、、、、一週間後

効き目無し

脳に転移したガンはどんどん進行し、幻を見たり、物が食べられなくなり、体はガリガリ。
皮膚も弱くなりお尻には入院の床ずれで皮膚は炎症、腐り、手のコブシが入るぐらいに穴が開き、口の中はカビが生え、僕のことも解らなくなり、命の灯火は段々と、、、段々と小さくなっていきました。

最後は3日間、夜は病院に泊まり、親戚のおばさんと、僕で最後を見届けました。

お分かりのように・父は最後の日も病院に任せとけばいい、泊まりなんてしなくていい、、、、悲しい人です。

人って、家族って、そんなんじゃ無いはずです。

母の闘病生活の17年間、凄く辛くて、孤独だったと思います。今はゆっくりしてくれてるといいです。

脳の異常を感じてからだと思いますが、家の母のベットの周りの紙と言う、新聞、雑誌、メモ帳、ほとんどに、ガンが悪化しすべての記憶が無くなる事を察したのか、今までの家族に対して、友達に対して色々な言葉が残されていました。

たくさん、たくさん、、、ペン、マジック、鉛筆。
文章の途中で辞めている物もありました。きっと脳のガンの影響だったと思います。

文字もガタガタで必死に書き残そうと言う母の命の叫びとも言う文字もたくさん。

僕に、残された言葉が、、、
○○ちゃんへ
色々してくれて、本当にありがとう
家族仲良くしてね
お願いね

と、ありました。

長い時間、お付き合い頂きありがとうございました。
不慣れな文章で申し訳ありませんでした。
こんな家族もいるので、
何かのきっかけに、前に進められたら母も喜んでいると思います。

画像は、最後母の病院から見えた桜です。
毎年、見に行きます。

たくさんの人が桜色の笑顔でありますように。

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