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『集客が劇的に変わる!クレーンゲーム専門店エブリデイの経営戦略 BADプレイスでも儲かる理由』第1章・無料全文公開

2月20日発売の書籍『集客が劇的に変わる!クレーンゲーム専門店エブリデイの経営戦略 BADプレイスでも儲かる理由』から、第1章「エブリデイを創り上げた男」を全文公開!

小売業がネット通販に圧迫されることを、大学卒業時に予見

株式会社東洋の取締役社長・中村秀夫さん。
1960年12月6日、東京都江東区南砂に誕生。4兄弟の末っ子に生まれる。

勤勉な姉、リーダー気質の長男、ユーモアのある次男。それぞれが優秀で個性のある兄弟たちに囲まれ、自分が勝てるものは何もないと、劣等感に苛まれたこともあるといいます。しかしそこで腐らず、「自分は自分なりのやり方で、人を笑顔にできる人になりたい」と思うようになったのが余人と異なるところです。

祖父はゴム工場やビニール工場を経営し、父の代で家具販売店へと業態を変えました。長男は家具、次男は家電、長女はリサイクルブティックと、経営者一族で生まれた影響もあり、いつしか起業を夢見るようになっていったのです。

高校を卒業すると専修大学に行き、経営学を学びました。いずれは起業を夢見ながら、大学を卒業後、武者修行の意味合いもあって眼鏡・宝飾品の販売店に就職。

「眼鏡はインターネットでは買えないだろうと思ったのが理由です。いまでこそネットで買えるようになっていますが、当時は眼鏡の販売には医療行為が含まれ、このビジネスモデルは一生あるだろうなと考えたからです」

中村社長は社会に出る時点で、いずれ小売業がインターネット通販に圧迫されることを見越していたのだから驚かされます。

起業する前に不安の迷路に……背中を押したのは綾子さん

 眼鏡・宝飾品の販売店で学んだことを生かして、27歳のときに退職。24歳のときに結婚した中学の同級生である妻・綾子さん(株式会社東洋 専務)と、いよいよ起業を実現するときが来た……はずでした。

企図していたのは、会社員時代の知恵と技術を生かしたロードサイドの眼鏡ディスカウント店。当時、メガネスーパーが都市部で10坪のディスカウント店をはじめていました。それを郊外で100坪でやろうとしたのです。父親の弟が戸越で5坪の家具屋をやっていて、父親が郊外の東村山で500坪の大型家具店を出店したところ、爆発的に売れたこともヒントになっていました。先に埼玉県北本市に300坪の土地を取得してしまうという、やや無謀な賭けに出ます。

夫婦ふたりで理想のお店をつくりたいと夢見ていた中村社長。しかし、いつしか不安に襲われるようになっていきます。まだ眼鏡の大型ディスカウント店の前例がない時代、自分たちにできるのか。100坪の店舗で1日に100人の来店があるとして、検眼できるのは中村社長しかいません。綾子さんとふたりだけで、検眼や加工、フィッティングを伴う眼鏡店を運営していけるのか。人を雇うにしても、検眼ができるように人材を育成するのには、最低でも1年の時間がかかります。

中村社長は、まだ創業をする前から、熟考しすぎて迷路にはまり込んでしまったのです。300坪の土地は購入したのに、です。

開業を見送って次の事業案がかたまるまで2年間ほど、綾子さんとフリーター生活を続ける日々。自分はサラリーマンとして人に雇われるほうが、気楽で性格的に合っているのではないか。そんな思いが頭をよぎったこともあったようです。

あるとき、ひとつ上の次兄に厳しい言葉を投げかけられました。

「お前、バカじゃねえか? 目の前に成功している事業があるんだ。俺が教えてやるから、ウダウダ言う前に、電気屋をやれ!」

当時、次兄は東京で家電のディスカウント店をはじめて、大きな成功をおさめていました。
その言葉に一撃を受けた中村社長の背中を、最後は綾子さんの言葉が押しました。

「お店をやると決めたのだから、やればいいじゃない。失敗も成功もやってみなければわからないわよ」

大切なのは準備よりも、「やり遂げるんだ」という覚悟だと、腹をくくった瞬間でした。

とにかく目立とう! エブリデイ1号店は大型家電量販店

兄の言うとおり、眼鏡や宝飾品の事業はあとでもやれる。電気の配線やコードの接続なんてやったこともないけれど、とりあえず成功パターンではじめてみよう。中村社長はそう考えたのです。

1990年、29歳のときに、満を持して家電ディスカウント店エブリデイ1号店を開店しました。そう、エブリデイの最初の業態は現在のようなゲームセンターではなく、家電ディスカウント店だったのです。それも冷蔵庫や洗濯機などの白物家電は扱わず、オーディオやビジュアル、ゲームソフトなどエンタメ家電に特化していました。

創業の地は埼玉県北本市。例の先に購入してしまった300坪の土地です(幸い、購入資金は父親が用立ててくれたおかげで、利子などの心配はありませんでしたが、その後20年ほどかけて全額返済したそうです)。

江東区育ちの中村社長ですから、まったく知り合いもいない土地柄でしたが、兄のいる東京で競合したくないとの思いが強くありました。そして神奈川・千葉・埼玉をめぐった結果、たどり着いたのがこの場所でした。いくつか候補があったなかで、「いちばん安かった」のが決定した理由です。

「これからは駅前や商店街という立地はおわりを迎え、商圏は郊外へ広がっていくだろう」という予測がありました。1990年当時、すでにそうした郊外店舗の展開がはじまり、コジマやノジマが現在の10分の1の150坪で郊外型の店を出店していました。

大型店舗にしたかったのは、「どうしたら目立つか」を考えたからです。まわりに何もない田んぼのなかに、いきなり広さ100坪の巨大な建物がドーンと登場したものだから、家電量販店エブリデイ1号店は、否応なく目立ちました。

経営方針もほかとは一線を画していました。当時台頭してきていたコジマやヤマダ電機よりも、さらに安く大量に販売することにしたのです。

「商売をするんだから、とにかく目立ちまくって買いに来てもらおう。ほかのどこよりも安く売ってお客さまを笑顔にし、毎日でも来たくなるような店にしよう」

2年間も創業を遅らせて迷っていたのがウソのように、中村社長の心は吹っ切れて、行動は大胆でした。

大手メーカーの横槍を受けながらも事業は急成長

中村社長の狙いは当たり、家電量販店エブリデイ1号店は開店初日から大行列をつくりました。

埼玉県各地からウワサを聞きつけた多くのお客さまを呼び込み、業績は急拡大します。

そのころの家電はメーカーによる販売価格が決まっており、その支配力は絶大で、ディスカウントすることなど小売店にはできませんでした。家電量販店エブリデイはさんざん広告を打ったあとに、大手家電メーカーから取引停止の通告を受けてしまいます。

しかし中村社長は一向に気にしませんでした。

「メーカーからの取引停止なんて、小売店からしたら勲章みたいなもんじゃないか」

とはいえ、大手メーカーの人気商品がないのではお客さまの信用も得られないため、中村社長は毎日、神田の現金問屋街へと出かけていきました。トラックで乗りつけて、仕入れた製品を積み込んでは自店の売り場に置く方法で乗り切ったのです。

初年度で7億6千万円を売り上げ、順調な滑り出しを切り、2~3年目には年商10憶円を超えていました。

しかし、コジマやヤマダ電機が埼玉県に次々と出店するようになるのを見て、年商10憶円あった家電を捨てて、ゲーム・CD・輸入雑貨に取扱品目を転換します。このときも、粗利が高くてインターネットでの販売が比較的むずかしい、という観点でジャンルを選んでいます。

創業から7年で年商15億円に達し、事業は順調に拡大していきました。

理想から乖離していく店舗

ところが中村社長の心には、どことなく違和感がありました。お客さまを笑顔にするつもりだったのが、気づくとお客さまも従業員もつまらなそうな顔をしていたのです。お客さまは商品を購入するまでは楽しそうなのに、レジでお金を払った瞬間に喜びが覚めてしまうように見えたと、中村社長は言います。

「きっといちばんの要因は、次第に売り上げが伸びなくなっていったことでしょうね。そうなると赤字が出て、経営が厳しくなる。経営が厳しくなると値引きを減らすなど、サービスを低下させる。サービスが低下すると、お客さまが笑顔にならない。お客さまの笑顔が見えないと、働いている社員たちは達成感がないので、『俺たち、ぼったくってんじゃねえ?』という感覚になりますよね。事実はそうでなくても。そうすると仕事のやりがいがなくなってくるのは当たり前だと思います。経営のバランス的に、お客さまと企業がウィンウィンの経営をしないと、結果的に働き甲斐のない職場になってしまいます」

中村社長は当時をこのように振り返りました。

綾子さんとふたりで夢見たはずの店舗は、次第に理想から乖離していくようでした。

店のなかでクレーンゲームのある場所だけが笑顔に

そのような状況のなかで運命的な出会いをしたのが「クレーンゲーム」でした。息子にせがまれて連れていかれた、街の小さなゲームセンターでのことでした。

真剣に遊ぶ子どもたちに混じって、中村社長もゲームに挑戦してみましたが、これがなかなかむずかしくて失敗します。そこで、ちょっとやり方を変えてみたところ、見事お菓子をとることができました。それを息子に渡したときの、うれしそうに、頼もしそうに自分を見上げる顔が印象的だったそうです。これは楽しい。そして何より、クレーンゲームに興じる人たちの笑顔が目に焼きつきました。

そして、自分の店にも置いてみたいと思ったのです。

商売人の性で最初に考えたのは、売れ残った商品を景品にしよう、ということでした。棚にあっては売れない商品でも、クレーンゲームを使ってとる付加価値を加えれば、新たな輝きを放つに違いない。お客さまには安価なゲーム代で高価な商品が手に入るメリットがあり、会社にとっては在庫整理にもなって一石二鳥でした。

クレーンゲームの効果は、それだけではありませんでした。

自分の店舗に初めて導入した機械の前で、100円玉を手にうれしそうにワイワイはしゃいでいるお客さまを前に、中村社長は新たな可能性を見いだしていました。

いつしか暗くなっていた店内で、そこだけはお客さまが笑顔になっていたのです。

ディスカウント店はよいものを安く提供すれば成立します。けれども、買い物はお金を払った時点で笑顔が消えてしまうのに対して、クレーンゲームはお金を払うときにもワクワクし、払ってからも笑顔が続きます。

遊ぶ人が自らアームを動かして、工夫して、努力して景品をとろうとする真剣な顔。そして何より、景品がとれたときのうれしそうな笑顔。

加えて中村社長は、先述したとおり「小売業には未来がない」と考えていて、いずれくるインターネットでなんでも買える時代を予測していました。

ハードである家電は、ネットで安く買えるようになるだろう。ゲームソフトやCDなどのソフトも、いずれダウンロードが主流になるだろう。そんな世の中で、店舗に来なければ体験できないもの。お客さまが楽しむためにわざわざやって来て、満足して笑顔で帰ってくれるもの……。

導入した1台のゲーム機をきっかけに、エブリデイはクレーゲームを主体とするビジネスへと舵を切ることになったのです。

クレーンゲームの数がどんどん増えていく……

はじめの1機を導入したあと、綾子さんが毎朝6時からクレーンゲームを店の前に出していました。スペースをとるクレーンゲームを朝から外に出しておかないと、出社してきた従業員が店のなかに入れないからです。中村社長は朝4時ごろまで働いて、そこから3時間ほど寝る生活をしていたので、綾子さんにまかせざるを得ませんでした。

そのころ身重だった綾子さんにとっては、かなり負担がかかる重労働です。しかし、クレーンゲームをして喜んでいたお客さまの声を綾子さんが中村社長に伝えるたびに、店内にあるクレーンゲームが1台、また1台と増えていきました。

そして2001年、初のクレーンゲーム専門店エブリデイを鴻巣に出店しました。クレーンゲームの数は40~50台ほど。家庭でできる電子ゲームなど、ほかにもさまざまな娯楽がある時代に、どんな結果が出るかは正直、未知数だったそうです。

しかし、クレーンゲーム専門店エブリデイは、電子ゲームとは違うアナログな魅力で瞬く間に人気店となっていったのです。そのころゲームセンターは駅前の一角にあるもので、クレーンゲームはすみっこに数台あるのがふつうでした。後の規模とは比較にならないとはいえ、約50台ものクレーンゲームが集まった施設は十分特長的ではありました。

クレーンゲームの最大の魅力は、景品が手に入ることにあります。ゲームセンターにあるほかのゲーム機は、お金を払ってゲームを楽しんだら、それでおわりです。

それに対してクレーンゲームには、持ち帰れる景品があります。誰でも成功できるわけでなく、技術や工夫が必要なのもおもしろいところです。

クレーンゲームに特化した専門店は極めて好調でした。同じ埼玉県内で、店舗もどんどん増えていきました。店の経営が好調なら社内のムードも明るくなるのは当然のこと。すると、いつの間にか従業員たちにも笑顔が戻っていったのです。 

東日本大震災で全5店舗が閉店に

2011年、東日本大震災が起きました。
多くの人の運命を変えた大災害です。直接的・間接的に、多くの企業が影響を受けました。それは中村社長率いるエブリデイも例外ではありませんでした。

街では電力不足から計画停電が実施されるようになりました。クレーンゲームを稼働するためには多くの電力が必要ですが、使うことができません。必然的に営業時間を大幅に短縮せざるを得ませんでした。

それとともに大きな壁となったのが、世の中に漂う自粛ムードでした。

被災して苦しんでいる人たちが大勢いるなかで、自分たちだけが楽しむわけにはいかない。ゲームセンターで遊ぶなんて、もってのほかだ。

アミューズメント施設への客足は自然と遠のき、エブリデイは窮地に立たされていきます。たしかに当時、私たちも「いまは自粛するべきだ」と、おとなしくして過ごしていたはずです。その裏で、大きな影響を受けた業種があったことにまで思いが及んだ人は少なかったに違いありません。

加えて時代はゆるやかに変化していました。

ネットゲームの台頭です。パソコンや携帯電話を使ったネットゲームなら、社会の目を気にすることなく、自宅で楽しめます。しかも多くの場合は、無料で遊ぶことができます。

その影響もあり、ゲームセンターの倒産が相次ぎました。「タダでもいいからゲーム機を引き取ってくれないか」と、同業者から相談されることもあったそうです。

東日本大震災のショックから立ちなおっていくなかでも、エブリデイからは次第に客足が遠のき、閑古鳥が鳴くようになっていきました。再び社員たちの顔が暗くなっていくのは、どうすることもできませんでした。

クレーンゲーム専門店のエブリデイは、わずか1年のあいだに、当時営業していた全5店が閉店に追い込まれたのです。 

クレーンゲーム300台を置ける物件を発見

約300台にものぼるクレーンゲームが行き場を失い、破棄される寸前のように駐車場や倉庫に転がりました。中村社長と綾子さんにとっては1台1台が子どもたちのような存在だったので、その様子を見ていたら涙が出てきたと言います。

屋台骨を失った株式会社東洋の年商は、半分以下に落ち込みました。

社員の中心メンバー20人ほどが一堂に集まり、これからの東洋をどうするのか、話し合いがもたれました。

その場は重い空気に包まれ、中村社長が「前を向いて歩こう」といくら言っても、その言葉を信じられずに会社を去っていく社員たちもいたそうです。その背中を見ながら、中村社長は自身の無力さに苛まれます。

しばらくは綾子さんとふたりで話し合う日々が続きました。しかし答えは出ません。このとき中村社長は倒産も覚悟したようです。

行き場のないクレーンゲームたちに、再び息を吹き込める場所はないか。夫婦で車を運転して埼玉県内を走り回る日が続きました。

やがてふたりが見つけたのが、現在の行田店が入っている建物でした。

もとはゲームセンターでしたが、客が集まらず閉店していました。周囲は田んぼばかりで、決して遊興に向いた地とは思わなかったそうですが、300台あるクレーンゲームをすべて置ける広さだけはありました。

ここで中村社長はピンときます。

「ここなら、どうにかなるのではないか」

高い家賃を払う資金力がない同社にも、田んぼのど真ん中にあるこの物件なら借りることが可能でした。床も天井もボロボロでエアコンもなかった店舗を、社員たちと一緒に汗水たらして磨いていきました。

2011年11月、これまでのゲーム機を全部集めたいままでにない規模のクレーンゲーム専門店、エブリデイ行田店がオープンしました。

震災の影響やネットゲームが人気のなかでの新規ゲームセンターオープン。やはり最初の1年間は大きな赤字でした。

一般的な経営者であれば、この状況であれば人員整理を検討するでしょう。しかし中村社長は、自分から従業員をクビにすることはありませんでした。

社員たちにも「見捨てることはしない、俺を信じて、ついてきてほしい」と強く語り続けました。当時の中村社長には、「いまが苦しくても必ず成功する」というイメージしかなかったのです。別業態のリユース店の開業を急速に展開することで、会社全体を立てなおそうとしていました。

中村社長がこのころから力を注ぐようになったのが「社員教育」です。社内研修で、創業の精神などを伝えていくようにしました。

最初は正直、半信半疑で聞いていた社員もいたかもしれません。しかし「みんなを絶対に幸せにする」と言い続けることで、少しずつ社内の雰囲気も変わっていきました。

退社した社員がいる一方で、残った社員たちには、同じ方向を目指す者たちの団結力のようなものが生まれてきたのです。逆境のなかでこそ芽生える力があることは、皆さんもご存じのとおりです。

中村社長自身も、自分を信じてついてきてくれる社員たちを「家族」と感じはじめていました。「大家族主義」というのは、いまも同社の社風をあらわす言葉です。社員たちがひとつになったとき、株式会社東洋は逆境にも負けない人間力のある組織になったのです。 

たしかな手応えをつかみながらアナログに生きる人

その後、同社はクレーンゲーム専門店のエブリデイを中心に発展を続け、初年度に17人だったスタッフ数は2024年時点で120人にまで増え、店舗数は12店舗、2023年には売上高32億円の過去最高を記録するまでになりました。

中村社長の経営理念に対する評価は外部からも高く、2023年には日本創造教育研究所が主催する第5回TTアワードの理念経営部門を受賞しました。その際のスピーチでは、「100年企業を目指し、2033年には100億円企業を創る」と高らかに宣言しています。

中村社長の人生は、決して順風満帆ではなかったことがわかっていただけると思います。むしろ失敗をして、それでもめげずに、這いつくばって踏ん張って、立ち上がってくる人生だといえるでしょう。

そこには苦労の分だけ、たしかな手応えがあります。家族、従業員、お客さまと、直に息づかいを感じられるコミュニケーションを交わした、という手応えを感じます。

そもそも中村社長がクレーンゲームに惹かれたのは、物を購入してお金を払った瞬間に喜びが覚めてしまう買い物ではなく、お金を入れるときもドキドキ・ワクワクするからです。そして景品を手に入れるためのドキドキ・ワクワク感や、景品を手に入れても入れなくても喜びが持続する点にありました。中村社長は次のように話しています。

「クレーンゲームは体験型のレジャーで、親と子どもが一緒になって夢中になれる遊びです。そこにはアナログの世界だからこその感動があるはず。かつての日本にはあった、ご近所さんとのつながりや家族との絆を深めていけるリアルな体験をできるのが、クレーンゲームの魅力です。デジタルの時代だからこそ、なくしてはいけないぬくもりや感動を発信できるのがクレーンゲームだと考えています。人を笑顔にする方法は、デジタルやバーチャルのなかではなく、リアルな、つまりアナログの世界にこそ存在すると私は思うのです」

このお話を聞いて、きっと中村社長は、そういうアナログな生き方が好きで、そのようにしか生きられない人なのだと、私は思いました。 

アグレッシブに、けれど小さなことを積み上げる

中村社長は、小さなことを一つひとつ積み上げる人でもあります。

著書『超・アナログ思考 凡人でも天才に勝てる唯一の方法』(白夜書房)のなかで、自身のことを「これといって大いばりできるような取り柄も、才能というほどの何か光るものがあったわけでもなかった」と、平凡な人間だと評しています。これだけメディアに取り上げられる繁盛店をつくりあげた、いまになってもです。

同じ著書のなかで、次のようにも述べています。

「ホームランを打つ人と比べたらちょっと地味かもしれませんが、毎日コツコツ、バントでもなんでもいいので球を打ち返し、小さなヒットを積み上げていく人。フォアボールでもいいので次の塁へと歩を進める人、そういうことをあきらめずにコツコツ続けられる人が、最後に大きな成果を上げることになるのではないでしょうか」

私は中村社長のことを平凡だとは思いませんが、中村社長自身の言葉を借りれば、平凡であっても、これと決めたらそこに全力で向かっていき、それをやりとおす。そうすればこれだけの企業を築き上げることができる事実は、起業を志す多くの人たちに勇気を与え、手本となるものでしょう。

加えていうと、私から見た中村社長は、かなりアグレッシブな人でもあります。広報に力を入れようと思い立ったらすぐに私の講座に足を運ぶなど、その行動力にはいつも敬服します。

長女の久美子さんによれば、「基本的に会社と家とで変わらない人です。やさしくてひとことでおわらせるタイプなんですけど、やると決めたらやるんで、全員を巻き込み、犬まで巻き込むんです。だから社員さんも皆さん困っているんだろうなと思います(笑)」と証言します。

本人もそれは認めていて、「やると決めたら、やらないうちは死んでも死にきれない。亡霊になって出てきてもやります」と笑います。

情や懐が深い社員の父親のような存在

中村社長は、社員たちに対する愛情が深い人でもあります。一人ひとりに対して怒ることもなく、懐深く接していて、誰に対してもじっくり付き合い、納得できるよう語り合うのです。まるでお釈迦様のようだなと感じました。

組織であれば、当然なかにはうまくできなかったり、問題を起こしたりする人もいるでしょう。

ある日、私が会議に同席させてもらったところ、ほとんど全員が課題をやってこないことがありました。私なら容赦なく全員クビにしてしまう場面ですが、中村社長は「次は10個のうち、とりあえず1つはやってこようよ」と、やさしく諭したのでした。

注意が必要な場合も、人前では決して怒らず、あとで冷静に諭すようにしているそうです。しっかり話し合って全員で向上していきたい、という面倒見のよさを感じました。

それが端的にわかるのが、エブリデイは店舗スタッフのうち5割がアルバイトではなく、正規の社員として雇用していることです。アミューズメント施設では、社員2割、アルバイト8割がふつうといわれています。

そして社員が事業運営の支えになるよう、教育に力を入れています。教育内容は「東洋スピリッツ研修」「クレーンゲームスキルアップ研修」など多彩です。開催日は年間120日に及びます。

新人には「うちの新入社員研修は30年間続きますよ」と告げている中村社長ですが、研修を通じて社員同士、横のつながりが生まれて総合力も高まります。教育を重ね、人間として成長した社員たちがいずれ、「この会社に入ってよかった」と実感してくれることを信じているのです。

ミステリーショッピングリサーチというサービスを使い、店舗の覆面調査を研修に用いることもあります。

「○○さんの接客はすごくよかった」という声もあれば、「○○さんはすごく感じが悪かった」など、店員の実名入りのリアルな反応が返ってくるものです。

「悪いことを書かれた人はショックだと思います。でも、たまにやると『たまたまそうだっただけ』と言い逃れもできますが、月に3回も4回もやっているので、言い逃れもできないわけです」と中村社長。その結果を見て左遷などはしないので、社員たちは安心感と、いい緊張感をもちながら勤務しているのです。

私もはたから見ていて、人材教育をして人を伸ばしてくれるいい会社だなと、いつも思っています。幹部の社員たちは、「中村社長は面倒見がよくて親のような存在」と声をそろえます。

若い社員たちにどこまでそれが伝わっているかは、私にはわかりません。それでも、オフィスを訪ねると社員たちに書かせた将来の目標などが壁一面に貼ってあって、皆さんのモチベーションを上げているのが伝わってきます。

また幹部社員たちには、社外の勉強会に同行させ、経営についても学ばせています(私のPR講座にも複数人で参加していました)。

こうした社員教育への投資は、経営者としてなかなかできるものではありません。しかも会社が赤字の時期にはじめたのです。

社員教育に力を入れ、社員たちにも経営の担い手であると意識させたことを機に、震災後にどん底まで落ち込んでいた同社の経営は再浮上していくことになります。中村社長の選択は間違っていなかったのです。

社員たちにとっては、まさに父親のような経営者。これまで数々の失敗を経験し、自分の弱さと向き合ったからこそ、情が深く懐の深い経営者になったのではないでしょうか。 

リユース、美術品、ロレックス……東洋を支える多角経営

株式会社東洋はクレーンゲーム以外の事業も幅広く展開していますので、ここで参考までに紹介していきます。

「エブリデイゴールドラッシュ」は、ブランド品から金券、古着まで幅広い商品を扱う中古品買取販売店です。通常の商品査定価格に加え、商品に対する「想い出」査定価格を上乗せして買い取るというのが、中村社長らしさを感じます。

「銀座東洋ジュエリー」は、厳選された世界でひとつだけのジュエリーを新品仕上げすることで、価値ある高級ジュエリーをお客さまに安く販売しています。現在、埼玉県に直営店10店舗を展開。地元密着・安心接客を実践しています。

「東洋ロレック」は、ロレックスを中心としたブランド時計の専門店。高度な研修に合格した専門鑑定士が、高級腕時計を丁寧に無料査定しています。

「古美術東洋堂」は、美術品・絵画・陶器・茶道具から装飾品まで、幅広い古美術品の買取販売をしている事業です。日本・東洋・西洋の幅広いジャンルに対応し、現在の市場価値だけでなく、今後の動向も見すえて高額買取をしています。

こうした多角経営は東洋の特長であり、このような経営だったからこそ、東日本大震災後のクレーンゲームがどん底だった時期も、会社が倒産するのを防げたのです。その後は、逆にほかの部門が不調のときに、クレーンゲーム部門が支えるようになっていきます。

ためらわずに業態転換するなかで、唯一こだわり続けたクレーンゲーム

中村社長はこれまで35年間の会社経営のなかで、大型のダーツショップ、インターネットカフェ、リサイクルショップ、輸入雑貨店、ゲームソフト店、漫画喫茶、古着ショップ、などさまざまな業態をどこよりも早く仕かけてきました。なぜ他者よりも早く商機に気づき、仕かけることができたのか、質問したことがあります。

「大きくいえば世界を見て自分を見るということなんですけど。私が家電をやっていたころは、パソコンが50~60万円して、マックが発売されて段々価格が下がってきたときです。アメリカを見るとインターネットが普及してきていました。いずれ日本にも普及するなら、このまま電気屋をやっていたら食べていけないな、ハードを売るよりもソフトを売ったほうがいいなと思い、ゲームソフトやCDを売るようになりました。ゲームソフトは買いに来なければ手に入りませんから。当時は『埼玉でゲームソフトといえばエブリデイ』というくらい圧倒的な強さ、超繁盛店だったんですよ。でも次に、いつまでもカセットの時代が続くはずがない、ソフトもダウンロードになるだろうと考えて、そのビジネスもやめていくわけです。だから私のルールは、『5年後を読んで、5年前にやめる』ということなんです」

その時代を読む速さにも感心しますが、さらに感心するのは、その商材が頂点を迎える前に、驚くほど潔く手を引く見極めの速さです。通常でしたら、業績が好調なときには「まだ行ける」と思い、なかなか捨てられないものでしょう。そこを中村社長は、「儲かってるからやめられるんです。これが儲からなくなってからでは、次に行けなくなります」とあっさり言います。

「いいものは続かない。同じビジネスモデルは10年、20年は続かないという大前提でやっているんです」

それは祖父や父親譲りだと話していましたが、1つの商材にこだわらず、次々と乗り換えていく経営方針があったからこそ生き残ってこれたのでしょう。

こうした経緯を見て、「儲かるなら手当たり次第なのか」と思う人もいます。しかし、そうではありません。

「最初に家電量販店をはじめたとき、店の看板に『エンジョイ・ディスカウント』と書いていたんですよ。冷蔵庫などは扱わずに、オーディオビジュアルなど、娯楽のための家電を扱っていました。この時点から『楽しい』を軸にやってきました。それ以降に展開した、ビリヤードや漫画喫茶、ダーツなど、いずれも娯楽という軸はぶれずにやってきたんです。儲かるならなんでもやってきたわけでなく、ビジネスで笑顔を想像するという軸は昔から変わっていないんです」

そうした経営方針にあって、唯一30年近く続けてきたのが「クレーンゲーム」です。

「なぜ、クレーンゲームは捨てなかったのですか?」との質問に対して、次のように答えてくれました。

「クレーンゲームはたった100円で感動と笑顔をつくれるんです。同じ100円をいただいて100均で物を売っても、感動はつくれないと思うんですよ。同じ商品を手に入れるのなら、レジに並んで漠然と購入するより、クレーンゲームに挑戦して自分の手でつかんで手に入れるほうが、生まれる感動が大きい。たとえば彼氏が彼女のためにクレーンゲームでとってくれたり、おじいちゃんが孫のためにがんばってとってくれたりしたものだったら、より捨てられない大切な思い出になる。そうしたストーリーが生まれるのもクレーンゲームの魅力だと考えます。日本において100円玉で感動と笑顔をつくれるビジネスモデルは、クレーンゲーム以外にないと思うんです」

ここまでクレーンゲームにこだわってきた人は日本中、いや世界中探してもいないでしょう。賢く時流を見極めて次々と業態を乗り換えてきた中村社長が、そこまで惚れ込んでライフワークに据えたものこそが「クレーンゲーム」。

「運命的な出逢い」という言葉が似つかわしいように思うのです。

*   *   *

第1章はここまで!
続きを読みたい方は、各電子ストアにて2月20日より随時発売になります。ぜひお買い求めください。
下記リンクはAmazonストアでの商品ページになります。書籍の詳細と目次もこちらからご覧になれます。
書籍『集客が劇的に変わる!クレーンゲーム専門店エブリデイの経営戦略 BADプレイスでも儲かる理由』

■ペーパーバック版(紙)

■Kindle版(電子書籍)

■書籍情報

けもの道に行列をつくる! 多くのテレビやメディアが注目する秘訣を公開。
来店客数が低迷して顔が青ざめている商業施設のオーナー、開発担当者、デベロッパー、広報担当などに読んで頂きたい1冊!


右肩下がりが叫ばれるゲームセンター業界に「エブリデイ」は一石を投じた。クレーンゲームに特化した戦略が紡ぐ右肩上がりの成長。人が寄りつかない僻地に次々と出店し、大成功を収め、業界の常識を覆す。
畑の中にポツンとある潰れたパチンコ店、何をやってもうまくいかない商業施設の跡地、撤退が相次ぐショッピングセンターの空き店舗。これらがエブリデイの手によって再生され、繁盛店として蘇った。その手腕は奇跡的といえるだろう。
その舞台裏に迫る渾身のルポは、ゲームセンター史上に残る革命ともいえる出来事の数々。成功の秘訣を知り、ビジネスの未知なる領域に足を踏み入れる覚悟を決めよう。
エブリデイはどのようにして生まれ、右肩成長を果たしてきたのか。ビジネスモデルのすべてに迫り、エブリデイの強さと本物さを知るために必読の書だ。
異端の経営の柱となる「BADプレイス戦略」「戦略広報経営」の舞台裏に迫る。誰も寄りつかない場所に行列をつくる施策の数々、販促費をほとんどかけずに集客する秘策など、その驚くべき手法を公開。
これまでの常識を超えた、エブリデイの新たなる挑戦が解き明かされる。経営コンサルタントの井上岳久の視点で見た広報と経営の真実が、この1冊に詰まっている。エブリデイの奇跡に触れ、ビジネスの可能性を広げよう

【目次】

第1章 エブリデイを創り上げた男
第2章 なぜエブリデイに人が集まるのか?
コラム 知られざるクレーンゲームの世界
第3章 つぶれた店に商機あり「BADプレイス戦略」
第4章 テレビ・新聞での紹介は当たり前! ユーチューバーをもメディアとして使いこなす「広報戦略」
第5章 広報を使いこなそう!
第6章 エブリデイのこれから 新時代は「サブカルチャー」で地域再生&まちおこし

■著者プロフィール

井上岳久

井上戦略PRコンサルティング事務所 代表、日本広報教育センター 最高顧問、株式会社カレー総合研究所 代表取締役
商社などに勤務後、横濱カレーミュージアム・プロデューサーを経て現職に至る。横濱カレーミュージアムを独自のマーケティング理論を実施し大成功を収める。退任後、戦略広報の手法を講演やコンサルティングで500社以上の企業に指導。戦略広報及びマーケティングPRに特化した日本で数少ない経営コンサルタント/マーケティングプランナーとして活躍。PRを核に経営戦略を遂行する次世代にふさわしい最新の経営法を構築し実践している。主な著書は『広報・PRの実務』(日本能率協会マネジメントセンター)など20冊以上。事業創造大学院大学客員教授、昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員、中小企業診断士、慶應義塾大学卒。

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