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    サッカー関係の方々へのインタビューまとめ。読んでくれた誰かの何かの役に立てば。

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おじいちゃんは「読まなくてもいいよ」と本をくれる。

この世には、それを聞くだけで、「間違いない!」と思わせてくれる、魔法の言葉があります。 例えば、「華金に飲む一杯目のビール」。これ、想像するだけで「間違いなくうまい!」と思ってくれた人は同志です。うまいに決まってます。 次に、「夜中の散歩中に聞くThe Beatles」なんてどうでしょうか。個人的には最高の一言。夜が自分だけのためにあるような自信が湧いてきて、気づいたら2時間は歩いてます。 そして、「おじいちゃんが勧めてくれた本」。これ、面白くなかった試しがないです。も

    • 自分を肯定するために違うものを否定しない

      信念は持ちたいし、貫きたい考えもある。でもその自分を「正しい」と証明するために、つまりそのための手段として、自分に合わない意見を否定したくない。「相手が間違っている」=「自分が正しい」とは限らない。 たとえば、「読書は人生を豊かにする」という1意見。これは正しいと、僕は思う。 でも、「読書は人生を豊かにするから、君も本を読んだ方がいいよ。ゲームばかりしていても無意味だよ」は、違う。特に後半の文がいらない。自分の意見を肯定するために、それ以外を否定しているし、それは本当に相

      • 近すぎて見えない

        顔の前に掌を持ってくる。手相や、ちょっと赤味がかった肌の色、血管も多少見える。 その手を顔の方に近づける。どんどんどんどん近づける。中指の先はもう視界から外れてきて、掌の匂いを感じるほど近づけたら、視界はもうだいぶ暗くて、掌を見ていると頭では理解していても、いったい何を見ているのか、よく分からなくなる。 ある対象を正確に見るためには、目と対象との間にある程度の距離が必要だ。要するに近すぎると、ピントが合っていなくて、対象を見誤る。 これは例えば、身内とか親しい友達からの

        • 紙ストロー当たり前世代

          当たり前にあるものへありがたみは、それを失ってからようやく気付くことができる。 寝てる間に窒息死しないからといって、呼吸をありがたく感じる人はいない。 当たり前とは、つまり「基準」である。 人それぞれの基準。自分の人生を生きる上での基準と言えよう。 僕は生まれてからこれまで、食料に困ったことはない。おもちゃもあったし、遊びも勉強も、好きなスポーツだってできた。誰が発明してくれたのか分からないけれど、気づいたらテレビも見ていたし、高校生になったらスマホも手に持っていた。

        おじいちゃんは「読まなくてもいいよ」と本をくれる。

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          7本

        記事

          昨日読んだネット記事を覚えていない。

          ネット記事を読まない日はないかと思います。少し時間を要する厚めの記事もあれば、さらっと流し読みするものもあるでしょう。 「情報」という枠組みで言えば、動画だって同じです。本の内容をまとめた解説動画や短めのニュースだって、自分では「読まず」とも、目で見て耳で聞き、情報に触れています。 しかしそれらを果たして覚えているか、甚だ疑問です。 例えば昨日多少時間をかけて読んだネット記事を、覚えていますか。 読んでいる最中は、皆が意識出来ていて当然です。「ああ、これは面白い。納得

          昨日読んだネット記事を覚えていない。

          夏目漱石を読んだら、若い頃のおばあちゃんに会えた話。

          僕が生まれたあの日から今日までずっと、彼女は僕のおばあちゃん。 おばあちゃんは『幼稚園生』だった僕も、『サッカー少年』だった僕も、『泣き虫』だった僕も、とにかくいつの僕でも知っている。一方で僕はおばあちゃんのことを今も昔も『僕のおばあちゃん』としか知らない。 改めて考えてみると、誠に不思議な存在だと思った。だから今になってやっと、おばあちゃんの『おばあちゃん以外の部分』を知りたくなった。 おばあちゃん曰く、僕と同じかもっと若い頃は、本ばかり読んでいたらしい。本が一番の娯

          夏目漱石を読んだら、若い頃のおばあちゃんに会えた話。

          本は僕に自由だけをくれた。

          -なんで本を読むの? ・・・無論、面白いからである。それ以外にない。 -じゃあ、どこが面白いの?何が面白いの? ・・・面白い。なぜ面白いのだろうか。「○○だから面白い」が成り立つのだろうけど、この「○○だから」の部分を表現できてしまうと、本を読む行為が他の何かで代用可能になってしまう気がする。 でも少なくとも、自分のためになるとか、自己投資だとか、教養を身に付けるためだとか、論理的思考を獲得するためだとか、そんな陳腐な理由が読書において先行してたまるものか!!!とは常

          本は僕に自由だけをくれた。

          全ての行為はおこがましい

          物事を捉え、思考する出発点に、その人の特性を垣間見ることができる。 タイトルの通り僕の出発点の一つは、わざわざお前(自分)がやるの?というおこがましさにある。 良かれと思って人助けをしたとしても、それが相手にとって迷惑になる場合もあるように、事実とは、常に受け取られ方次第だ。 人の役に立ちたい、他人の人生を変えたい。 これらは素敵な心持ちではあるけど、残念ながら素敵に伝わっていないケースも起こり得るのが事実。自分の行為はおこがましいと思っていれば、何をしても別に期待し

          全ての行為はおこがましい

          渋みと腐りは紙一重

          知識、経験、人間関係、お金、、、 これらを積み上げた大人を「渋い」と表現することがある。 様々な経験を積んできたからこその渋みがにじみ出てる人は、確かにかっこいい。 でも、『それって渋みじゃなくて既に腐ってない?』ってパターンもある。 「人生とは、歳を重ねる毎に色々と積み上げていくものだ」と思っていた。 しかし積み上げると言えば聞こえはいいが、「多くを抱えている」と捉えてしまえば、それは重荷にしかならない。そして自分では扱いきれないほど多くを抱えてしまうと、どこから

          渋みと腐りは紙一重

          人の言葉、おれの言葉。

          それは本当にお前(自分)の言葉か? こう思う瞬間がある。誰かの言葉を聞いてもそうだし、自分が口を開いたときにもそう。 分かりやすい例が、「好きなことで生きる」 これを聞くと、どうも疑ってしまう。多様な社会が少しずつだけど広がって、色んな業種がそれぞれの大きさで普及している。働き方の選択肢が増えた、と言っていい。その流れの中で、とりわけ輝かしく聞こえるこの言葉に注目が集まり、これを自分の言葉のように口にする人も当然いる。 しかし生きることの目的は人それぞれだ。好きなこと

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          勝手に腑に落とすな

          「腑に落ちない」という慣用句がある。主に納得がいかない・合点がいかない意で使われるが、これと逆の意味合いで「腑に落ちる」という言い方もある。 「腑に落ちる」 納得や理解を示す際に使われるこの言葉に、ここでは警鐘を鳴らしたい。 というのも、私たちが生きる現代において、この「腑に落ちる」行為はあまりにも簡単に、そして都合よく満たすことができてしまい過ぎるからだ。 映画を見る前には必ずと言っていいほど他人のレビューや前評判が入ってくる。作品を見る前からもうある程度話の内容を

          勝手に腑に落とすな

          noteを始めて1年が経ちました

          ドイツ留学中にnoteを始めて、インタビュー記事やら自分の考えを自由に書き続けていたら、10月で1年が経過しました。まず一度でも記事を読んでくれた方へ、ありがとうございますと伝えたいです。 初回記事のタイトル通り、とりあえずやってみたら1年が経ったわけですが、今回は一応1年続けてみた感想を、超個人的な主観に基づいて、緩く綴っていきます。 振り返り当初は1週間に1本の記事を書くつもりで取り組んでいましたが、この記事を含め現時点で36本ということで、月に3本のペースとなった1

          noteを始めて1年が経ちました

          好きな情報ばかり偏食してない?

          小さい頃は誰しもが、『好き嫌いせず満遍なく食べようね』と言われたかと思う。要するに野菜も食べなさいと。 その理由も簡単で、”健康に良いから”とか”大きくなるため”とか、まぁ色々正当な理由があるわけで。 それで最近思ったのは、「情報と栄養は同じ」ということ。 大人になり一人暮らしをして、毎食何を食べるか自分の判断だけで決めることができるようになると、不健康的な太り方をする人も多い。”選択肢が増える”ことは大人になると伴う特権であると同時に、自制できず楽な方に流されてしまう

          好きな情報ばかり偏食してない?

          自分なんて雑魚だと思って今日も、生きる

          1年前の僕は、ドイツ生活7か月を迎えた頃。 それだけ異国の地で生活していると、”自分ができること”と”できないこと”が明確になってくる。そして「できないことの多さ=自分の非力さ」に定期的に絶望する日常。 言いたいことはあるのに言語の壁によって伝わらないもどかしさ。 やりたいことはあるのにそのスタート地点にも立っていない実力。 まるで、遠くにジャンプしたいのにしゃがむことができないようなやるせなさを感じた。 住民登録に行ったのにダメな理由も理解できず帰らされたことも、

          自分なんて雑魚だと思って今日も、生きる

          本屋には全てがある

          定期的に本屋へ足を運び、何冊か買う。 ネットで探すのではなく、わざわざ本屋へ行こうと思うタイミングはいくつかある。 一つは、目当ての本が漠然としているとき。例えば、「小説読みたいな~」とか、哲学について勉強したいけどどの本が良いのか分からないとき。 次に、何か新たなきっかけを求めるとき。 ネットが普及した今では、本屋へ行かずとも本を買えるし、本を買わずともネット上で読むことができる。 しかしネット購入では得られないものが本屋にはある。 それは、思いもよらぬ出会いで

          本屋には全てがある

          同意は危険な行為である

          瞬間的にどんな情報も、誰の意見でも受け取ることができる時代。 受け取る情報の母数が増えれば、賛同する意見と出会う確率も当然上がる。 しかし賛同や同意は良い側面ばかりではないから注意したい。 心に刺さる言葉と出会うことは誰しもが経験するかと思うが、それは自分で考え、作った言葉ではないと忘れてはいけない。 その言葉を作った本人は、「自分の身体で時間をかけ経験したことを基に、ようやく自分の腑に落ちる形を言葉として見つけ出した」という過程を持っている。 しかしその言葉を受け

          同意は危険な行為である