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近すぎて見えない

顔の前に掌を持ってくる。手相や、ちょっと赤味がかった肌の色、血管も多少見える。

その手を顔の方に近づける。どんどんどんどん近づける。中指の先はもう視界から外れてきて、掌の匂いを感じるほど近づけたら、視界はもうだいぶ暗くて、掌を見ていると頭では理解していても、いったい何を見ているのか、よく分からなくなる。

ある対象を正確に見るためには、目と対象との間にある程度の距離が必要だ。要するに近すぎると、ピントが合っていなくて、対象を見誤る。

これは例えば、

身内とか親しい友達からのアドバイスが往々にして直接的な問題解決へと結びつかないケースと同じである。「親しい間柄にだけ見せる自分」と、そうではない「社会的な空間のための自分」とがあり、この二面性(実際にはもっと複雑だが)を持つ自分は見る人によってまるで違う生き物として映る。近しい間柄からでは決して見えない、発見することができない内面性を誰しもが持ち、逆に遠すぎて(赤の他人すぎて)見えないこともあり、そして近しいからこそ見えてくる面があるのは、「恋人と同棲してみたら嫌なところも目に入るようになる」というよくある例が示すとおりだ。

また他にも、

ずっと一つのこと(スポーツでも芸術でも学問でも)しかやってこなかった人、一つのことだけ熱心に関わり続けてきた人ほど、何か大事なことを近すぎて見落としている可能性がある。一度離れてみないと見えない。それだけに熱中しすぎて、視野がどんどん狭くなって、暗くなって、自分が見たいと思うものだけにピントは合ってるかもしれないけど、他を捨てている。

ここでは別に、

熱中することを否定していない。サッカーに取り憑かれて、異国の地でサッカーをしてみたら、そこでサッカーだけを生きがいとしていない人や文化と出会い、サッカーを通してサッカー以外のことを好きになるきっかけを掴んだ人がたくさんいる。何かに熱中するからこそ、見えてくるものだってある。

ただ何度も言うように、近すぎると見誤る。対象を正しく見えてない可能性がある。「正しく」とは、「自分が見たいように」ではなく、「事実をそのままに」という意味である。

一番近すぎる最たる例が、「じぶん」だろう。

自分の好きなところや、得意なことなんかは過大評価しがちであり、逆に嫌いなところや苦手なことに対してはほとんどの場合過度に低く見積もっているケースが多い。

近すぎる「じぶん」という存在を、一度「他者の視点」を挟み捉えることで、遠くに置くことができる。これがつまり「客観的」である。

「主観的自己」も「客観的自己」もあって然るべきで、善し悪しの話ではない。ただ、「何か見えている」状態というのは、同時に「何か見えていない」状態でもあるという認識が必要という話である。

「大は小を兼ねる」と言うが、大小で括れる物事ばかりではない。とりわけ優れた知識を得たと自負した瞬間に、必ずおごり(自分は大を得たと)が生じ、小を軽んじ、大切な本質を見落とす。そして見落としている事実に気づかない。


だいぶ抽象的な言い方をしたが、内容が腑に落ちないときこそ、それは深く考えてみるチャンスである。


Shingo

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